相場にコケにされた負けトレードも甘んじて受け入れる「損小利大」の精神。

FXブログ
相場にコケにされた負けトレードも甘んじて受け入れる「損小利大」の精神。

こんにちはー。
荒天によるダメージはゼロ、お家大好き系FX専業ニートのORZ(おつ)です(・∀・)

個人的にここ最近は+300pips超えも含めわりと勝ちトレードが多かったんですが、こういう時って読者さんから

焦り男性

ORZさんのような“負けない”トレーダーになるため頑張ります!

っていうコメントやメールをたまにいただくんですよね。

もちろんORZを目標にしてくれるのは嬉しい限りなんですが、1つだけ訂正するとORZは負けないトレーダーではございません。

今回の記事で解説するポン円短期トレードも実は負けトレード

ORZ
ORZ

どんなにすごいトレーダーでも相場の動きをカンペキに予測することはできないので、実質“勝ち続けることは極めて困難”と言って良いでしょう。

じゃあなぜORZが10年以上も相場で生き残れているのかっていうと、“トータルで最終的に利益が残るように「損小利大」意識してトレードしているから”です(´ω`)

負けは負けで受け入れつつも損失は小さく抑えることを心がけて、利益GETのチャンスは可能な限り引っ張っていく。

これが損小利大の理念であり、ORZのFXトレードにおけるモットーであります(`・ω・´)ゞ

今回はポン円短期トレード(負け)の詳しい解説と、合わせてこの損小利大についても少し触れていけたらと思ってますんでぜひ最後までご覧になっていってください。

1回1回の負けで凹んで引きずっちゃう
勝率そこまで悪くないのになかなか資金が増えない

って方には参考にしてもらえるんじゃないかと思います。

ではでは前置きが長くなっちゃいましたが、早速トレード解説から進めていきましょー!

円買いの流れに乗ってポン円短期トレンドを狙う!

まず最初に、ORZが普段使っている手法の概要はこちらのページで解説してるので、初めましての方は良かったら覗いてみてください。

いつもは中期足ベースのデイトレが多いですが、今回は短期トレード。

基本的にやることは変わりませんが、ベースの時間足が小さくなるので全体的に少しスケールを小さくするイメージですかね(・ω・)

実際に見てもらった方が早いと思うので、早速ベースとなった15分足から確認していきましょー。

【GBPJPY/15分足】
15分足見立て

保ち合いゾーンを下抜けて3本のMA(移動平均線)は下向きになり、下降雲も形成して明確な下降トレンドに転換してますね。

ちょうどMA50とレジサポライン付近まで戻してきており、ここから戻り売りが狙えそうです(・∀・)

で、ここから仕掛けるとすると利確目標は前回安値までの25〜30pips辺りが適切かなーと。

※利確目標の目安・決め方は下記ページを参照。

FXトレード利益確定の目安・ポイント!オススメの利確目標3+2選!
今回は読者さんからの質問が特に多かった「利確目標の見つけ方」各相場状況ごとに「ORZがどんなポイントを利確目標の目安にしてるか」まとめてたので、含み益が出ている時に決済に踏み切れない方、良かったら1つの判断材料にしてみてください(・∀・)

 

これだけでもおおよその戦略は問題なさそうですが、相場の大きな方向性や逆行リスク等も確認しておきたいので上位足も見ていきますぞい。

【GBPJPY/4時間足】
4時間足見立て

4時間足は上昇トレンドがイマイチ伸びきらないまま、高値でダブルトップか三尊か微妙だけど反転チャートパターン作って下落中。

もはや上昇トレンド崩壊も時間の問題といったところですが、目先はひとまずMA100あたりまでは落ちそう。

今回のトレードはそんなに引っ張るわけじゃないので、方向性・伸び代的にも問題ないですね。

【GBPJPY/1時間足&30分足】
1時間足&30分足見立て

続いて1時間足と30分足ですが、こちらは両方明確な下降トレンドと言って良いでしょう。

さらにMA20付近までは一旦戻しているため、極端に逆行するようなリスクも低いのかなーと(・ω・)

ORZ
ORZ

上位足のトレンドでMAとローソク足の乖離が大きい場合、その乖離を埋めようと戻しが入るリスクがありますからね。

ふむ、全体的に見ても結構良い感じの相場状況だし、短期でサクッと抜いていく分には何ら支障はなさそうです。

ここで一旦戦略をまとめておきましょう。

【ここまでの戦略まとめ】

  • 4時間足:上昇相場の高値でダブルトップ作ってネックラインも下抜け。MA100までは落ちそう。
  • 1時間足&30分足:明確な下降トレンド。どちらもMA20までは戻し済み。
  • 15分足:明確な下降トレンド。MA50+レジサポラインまで戻してる。
  • 戦略:15分足MA50+レジサポラインから戻り売りが狙えそう。前回安値までの25pips程度を拾えたらサイコー。

では最後に下位足でエントリータイミングを見ていきますぞい。

下位足で反転を確認することでエントリー直後の逆行を阻止…するも…?

【GBPJPY/5分足】
5分足見立て

押し目買い・戻り売りなどの反発トレードは、基本的に細かい値動きの短期足を見つつ狙い目の抵抗付近で反転チャートパターンなどを確認します。

ORZ
ORZ

戻しの勢いが止まったことを確認することによって「エントリー直後にそのまま逆行して即損切り」みたいなケースを減らすことができるんですね。

今回の狙い目は15分足のMA50ですが、今はその付近で三尊を形成してるのでネックラインを下抜けてきたらエントリーできそう(・∀・)

【GBPJPY/5分足(16日13時50分ごろ)】
5分足エントリー

しばらくして狙い通りネックラインを下抜けてきたのでポチッとな。

164.247でショートエントリーですじゃッ(゚∀゚)

そして今回は利確ポイントも決まってるので、エントリーと同時に損切りと利確注文も設置。

損切りは-15pips利確は+25pipsの位置に設置完了です。

ORZ
ORZ

後ほど詳しく話しますが、この「損失よりも利益が大きくなるように決済幅を調整する」というのも損小利大の大事な考え方なので覚えておきましょ。

ではその後の動きをサクサクっと見ていきますよー。

【GBPJPY/5分足(16日14時50分)】
5分足経過

ウーン、落ちない…(´ー`)

エントリー時はかなり良いカタチだと思ったんですが、特に抵抗とかもないのにメチャクチャ下げ渋っております。

こりゃー雲行き怪しいか?と、思いながらチャートを眺めること5分後…

【GBPJPY/5分足(16日14時55分)】
5分足結果

ぐほぉぉッ( ゚Д゚)

そのまま上昇の勢いが強くなり損切り(逆指値)にぷすり。

エントリーから全く見せ場なく、-15pips(-150,000円)でフィニッシュです。。

取引結果

 

そして何よりこのあとがヤバかった(´﹃`)

【GBPJPY/5分足(16日16時過ぎ)】
5分足その後

フリーザ

いや、実際初めてじゃないしFXではよくあることなんですが…

 

何度喰らってもイラッとしますよね(・∀・)

 

しかしまぁ見方を変えればおおよそ方向性は間違ってなかったとも考えられますし、元々利確ポイントも+25pipsで固定してたので逃した魚もそこまで大きくない。

ORZ
ORZ

そりゃーこんな展開見せられて悔しくないわけないですが、こういう時に焦って追っかけると大抵良いことないので潔く撤退が無難ですね。

とまぁこんな感じでどんなに優位性の高いポイントだと思って仕掛けても、理不尽な相場の動きによって負けてしまうことは多々あります。

そこで大事なのが「損小利大」の精神(´ー`)

ある程度負けても最終的に利益が残る資金管理を意識すべし。

ぶっちゃけ損小利大の考え方自体はそんなに難しくありません。

“1回のトレードの利益が損失を上回るように資金管理する”

極端に言っちゃえばこれだけ(・∀・)

例えば今回のORZのトレードで言えば…

損小利大

引き続き同じ損切り幅・利確幅でトレードした場合、仮に3連敗を喫しても2回勝てばその損失分をカバーできるんですよね。

しかしまぁ現実は損小利大を実現するために多くのトレーダーが頑張ってスキルを磨いており、まさに「言うは易し」ってやつです(´ー`)

損失を限定することはある程度誰でもできますが、それ以上に利益を伸ばす必要があるため相応のトレードテクニックはやっぱり必要。

ここでお話したのはあくまでザックリとした考え方の部分なので、もう少し損小利大について詳しく知りたい・トレードテクニックを身につけたいって方は下記のページたちを参考にしてみてください(´ー`)

【秘密の損小利大実践方法】誰でもできるように解説してみた!
こんにちは、FXニートORZ(おつ)です(・∀・)

今回の記事では読者さんからのご質問にも多い…


【永久保存版】FXの勝ち方を必要なテクニックごとに本気(マジ)でまとめてみた。
みなさん、こんばんは。
人生において唯一全力で取り組んだものはFX。ニートレーダーORZ(おつ)で…

負けを恐れず損小利大で手元に利益を残せるトレーダーになろう

というわけで今回は短期負けトレードの解説とカンタンに損小利大の考え方について話してみました。

昨日のFOMCを受けてドル相場などは多少わかりやすくなっていたものの、先ほどの円買い介入で特にクロス円がカオスな状態に(´﹃`)

【主要通貨ペア/1時間足】
介入

こんな時に焦って利益を取ろうと資金管理が甘くなってしまっては相場の思う壺ですからね。

※ORZは昨日から先ほどまでNZDUSDでショートポジを保有してましたが、介入のせいでプラマイゼロに終わりましたw

ORZ
ORZ

「なかなか上手くいかない」と感じる時はひとまずガード固めて(損失限定して)機を待つのも立派な作戦。

定期的に利益取りやすいチャンス相場は訪れますし、それこそ1回のトレードでグッと巻き返せることもありますからね。

相場と自分の状況をできるだけ俯瞰的に見て、“耐え時”“攻め時”を見誤らないようにしましょう(´ω`)

ぜひこれを機に「損小利大」を意識しながら資金管理、トレードを実践してみてください。

 

また当ブログの【FX道場】では、ORZの手法を元に相場分析のノウハウ・スキルを一から体系的に学習できるので、興味のある方は下記から詳細をチェックしてみてください。

基本教材での学習と1対1のメール添削方式なので、忙しい方でもマイペースに進められますよん(・∀・)(FXの経験問わず大歓迎!)

ORZのFX手法を一から学ベるFX道場開催中!!

アップデートによってさらなる進化を遂げたFX指導企画《真・ORZのFX道場3.0》では、ORZのトレードテクニックをベースとしたFX手法を学びながら、実践での経験を着実に積んでいただけるカリキュラムになっています^^

楽しくスムーズに学習を進め、きちんと理解を深めていただくために、道場生さんしか見れない特別な解説動画も設置!

FX初心者・未経験者の方でも無料でご参加いただける企画になっていますので、興味がある方はお気軽にご参加ください(´ー`)

下記のメールフォームから参加申し込みいただくと、ORZから道場入門についての案内メールが届きます!

参加お申し込みフォーム

    ※このメールフォームからお申し込みいただくと、ORZがメールを見てから順番に返信するため2〜3日かかる場合がございます。

    「さっさと入門したいぜッ!」という方はこちらからどうぞ↓
    【早く道場へ入門したい方用のお申し込みフォーム】(自動対応)

    必須問い合わせ内容
    任意具体的な相談内容
    必須お名前(ニックネームもOK)
    必須メールアドレス
    任意ご職業
    任意FX歴
    任意トレード環境

    ※返信が来ない場合は、メールアドレス間違い迷惑メールに届いてる可能性があるのでご確認お願いします。

    ORZからの返信が届かない場合は、お手数ですがGmailで再度お試しください(・∀・)

    ORZTube(・∀・)にて楽しく学べるFX動画配信中!

    YoutubeでもFXの勉強ができる動画を随時更新ちう(´ω`)

    どれもわかりやすく簡潔に解説しているので、片手間に楽しくFXのアレコレを知ることができる動画をたくさんご用意しております!

    下記のページにてオススメ動画をランキング・ジャンル別に分けて紹介しているので、興味のある方はCheck(σ・∀・)σ

    →FX動画まとめ!人気ランキングもあるお(・∀・)

    今すぐYoutubeへGoしたい方はコチラ〜!

    [紹介元] FXブログ|プロニートORZが億稼ぐ! 相場にコケにされた負けトレードも甘んじて受け入れる「損小利大」の精神。

    相場にコケにされた負けトレードも甘んじて受け入れる 損小利大 の精神

    しかしこれも何の根拠も無い誤解偏見。実際西欧ではジュエリーに用いる貴金属は基本ゴールド。プラチナなんて滅多使わない。どうしても白い地金を使いたいときはホワイトゴールドと言って、金に白っぽい金属を混ぜて拵える合金を使うものと相場は決まってる。

    人形というと、世界的に有名なのはジュモーである。あのフランス人形の極地とも言うべきジュモーの人形には、精巧な作りに加えて言い知れぬ豊かな表情とこまやかな感性が秘められており、見るものを不思議な感動に誘い込む。与勇輝の人形もそれに似たところがなくもないのだが、私個人としては、その本質は、むしろ、ロダンやその弟子の荻原碌山、高村光太郎といった、自然主義の彫刻家達の作品にに近いものであるように思う。歓び、悲しみ、怒り欲望、悶えと言ったような人間の内面を、生身の人間のそれら以上に衝撃的なリアリティをもってブロンズの彫像に托しきった偉大な彫刻家達と同様に、与勇輝という人は、布地を主な素材とした独自の人形に人間の心の陰翳を托し表そうとしていると言ってよい。写実ではあるが、それは心とその心の発する言葉の写実なのであり、単なる外面の精巧な写実なのではない。だから、たとえゴッド・マザーという言葉の意味を知らないとしても、ゴッド・マザーというタイトルのついた人形の前に立つと、我々は一目見ただけで有無を言わさずその言葉の持つ意味を納得させられてしまうのである。実際、これは凄いことに違いない。与勇輝は決して自分の人形製作の技法を隠したりはせず、一切を公開して見せていたらしい。しかも、町のカルチャー・センターなどで、長年にわたって一般の人々を対象にして人形制作の指導を続けてもきたという。そのかわり、その指導は極めて厳しかったようである。容易なことではうんと言わない。素材も決っているわけではなく、工夫を凝らしてありとあらゆるものを使う。靴・帽子・バイオリン・ランドセル・菅傘・篭類・草履・下駄・着物地の染めから各種の細かな刺繍まで、本物の製作とほとんど同じような工程を踏みながらすべてを自分で作らせられる。もちろん、着物や洋服は、本物を仕立てるのと寸分違わぬやりかたで作製させられる。そしてそのうえ、仕上がった人形はそれなりの人生を背負い、心と言葉をもっていなければならない。だからたった一体の作品を作るのにさえ途方もない時間を要したりもするらしい。私の知人でもあり、与勇輝の弟子筋にあたるある老婦人などは、老人の人形を作っていたとき、その小さな杖一本を作るのに何度やってもやりなおしを命じられ、そのためにずいぶん長い時間苦しんだそうである。あるときたまたま見つけたちいさな木の素材を使い、それにいろいろ手を加えてようやくOKが取れたのだそうだが、その人形が完成したときの充実感は大変なものだったという。聞くところによると、与勇輝という人は自分の制作した人形がケースに収められることを大変に嫌うという。「呼吸ができず、心が自由に翔けなくなり、人形が死んでしまう」というのがその理由なのだそうだ。自分の作った人形が人手に渡った場合でも、彼は時間をみてはその家を訪ね、自分の納得の行くまで、形の崩れや、微妙なバランス、衣類や付属品のちょっとした加減などを調整してまわってもいたらしい。人形の一体一体が、文字どおり、作者自信の分身そのもになっているからなのだろう。人形制作のペースは、平均、一・二カ月に一体くらいだったようで、納得がいかないときには、年に一体も完成しないこともあったというから、まさにそのへんは昔の職人気質そのままだと言ってよい。もちろん、人形の持ち物すべて手作りだから、ありとあらゆる工芸技術の修練と研鑚をも常に積んでいるわけで、その苦労は想像以上に大変なものだったようである。ずいぶん前に見た作品展の賑わいぶりなどからすると、はためにはとても華やかそうに映るのだが、人形制作のペースがいま述べたような具合いだし、もともとそれを売って生計を立ててきた人でもないようだから、実際の生活面は想像以上に大変だったことだろう。むろん、ディーラーの誘いにのって手を抜いた作品をどんどん作るかたわら、高い講師料をもらって人を教えれば生活は楽にはなったのだろうが、そうすれば人形のほうは心と精気とを失ってたちまち死んでしまったに違いない。逆に言えば、もともとそういうことのできない気質の人だからこそ、あれほどまでに凄い人形を作り出せたのであって、それはもう、芸術の本道を行く人の宿命とでも言うべきものであるのかもしれない。知人の話によると、ときたまテレビ出演したときなどに見せる穏かそうな表情が与勇輝の常の表情だと思ったら大きな間違いであるという。普段人形を作っているときの、あるいは、人形の作り方を弟子たちに教えているときのその姿は鬼そのもであるらしい。その指導の仕方も、多くの一流職人や第一級の芸術家がそうであるように、教えるというよりは優れたものを自ら実際に作って見せるというやりかたであるようだ。むろん、程度をわきまえてのうえのことではあろうが、恐ろしい形相で鋭いノミを作業台に突き刺すことなど日常茶飯事のことのだったらしい。一流の芸術家というものは、多かれ少なかれ皆そうなのであろうが、あれほどまでに人間の心の奥を見通す眼を持っていると、むしろある意味では人一倍不幸だとも思われる。見えすぎるゆえの不幸である。そして、そのような一人の天才が、天才のゆえに避けることのできない不幸をば、全身全霊を込めて作品へと昇華させようと足掻き苦しんだ結果として、はじめて、あのような優れた人形群、いや、心形群はこの世に生まれ出てくるのであろう。思いがけなく目にした与勇輝作品がもとで、かつて目にしたその作品群の印象を語ることになってしまったが、いま述べたようなことは単に人形の世界に留まらず、芸術一般の世界にも通じることであるように思われてならない。

    車は、激しくエンジンをうならせながら、左へ右へと大きくうねる急峻な隘路を懸命によじ登っていく。一応は舗装はされているので凹凸は少ないが、なかなかの道であることには変わりない。ときおり工事用のものとおぼしきダンプとであい、ぎりぎりにすれ違える地点までバックするという事態も起こった。だが、奥へ奥へと進むにつれ、目に見えて若返る樹々の緑の美しさは、そんな苦労を補ってあまりあるものだった。垂直に切り立つ林道沿いの渓谷は刻々とその深さを増し、渓谷の両側に聳える山々は、黒ずんだ荒々しい岩肌をむきだしにして我々の目を圧倒しはじめた。そして、周辺を彩る緑の輝きはいっそうみずみずしさを際立たせていく。走ってみてはじめて実感するのだが、さすがにこの山系は奥深い。もうずいぶんと山間深くにに分け入った気がするのだが、地図で確かめてみると、まだまだずっと奥へとこの谷は続いている。林道が大きく北へと転じる猿田川ダム脇を過ぎ、右手に猿田川の渓谷を見下ろしながらしばらく進むと、急に展望が開け、残雪をまだ全身にまとったままの朝日連峰の主稜が姿を現した。千八百メートル前後というその標高からは想像もできないほどに堂々としていて、なんともいえない存在感にあふれている。身体の大きさだけではその人間の存在の重さをはかれないのと同様に、標高や単なる山体の大きさだけではその山の奥深さをはかりしることはできない。我々はしばし車を停めてその雄姿にじっと見入った。運がよければ山形方面へと抜けられるかもしれないという我々の甘い期待は、猿田川キャンプ場を少し過ぎたあたりまで進んだ時点であえなく吹き飛んだ。頑強な鉄製の車止めが行く手を冷たく阻んでいる。たとえ力ずくで車止めを突破しようにも、これではまったく歯がたたない。引き返すのはどうにもしゃくだが、やむを得ないようである。我々は、いったんその場に車を駐めると、すぐ脇を流れる猿田川畔におり、昼食をとりながら善後策を練ることにした。来た道をそのまま村上まで引き返し、単純に国道を北上するというのは、「通ったことのある道や、車の多い国道は極力避ける」という、かねてからの我が旅のポリシイに相反する。そもそも、「奥の脇道を放浪する」という今回の旅の名目にそぐわない。転んでもただでは起きないのが我々の旅の精神とあらば、ここはなんとか打開策を講じねばなるまい。地図を眺めながら思案するうちに、三面川本流と猿田川との分岐点まで戻ったあたりから山形県南部の小国町方面に向かって南下する林道があることに気がついた。かなり南に戻ることにはなるが、この面白そうな脇道を抜けて小国町、飯豊町と走り、飯豊から朝日山系の東側を迂回して朝日町、大江町方面へ北上すればよい。ちゃんと地図にも載っているくらいだから、通れないことはないだろう。思惑通りにことが運ぶかどうかはわからなかったが、ともかく、次善のルートはこうして決まった。昼食をすませて河原から車へ戻る途中、我々は不思議なものを目撃した。ブナの巨木に何重にも巻きついた足の付け根ほどの太い藤が、力ずくでズタズタに寸断され、枯れ死んだ光景だった。ブナの幹のほうにも、藤が深く喰い入ったあとがネジの溝のようにはっきりと刻み残されている。それは、森の大蛇「藤」と森の巨人「ブナ」との、何百年にもわたる、静かな、しかし命をかけた凄絶な戦いの跡だったのだ。「結局、ブナが勝ったんや……」という渡辺さんのさりげない一言が、なによりもよくその状況を物語っていた。たぶん、初めの頃は、成長のはやい藤がブナを圧倒していたのであろう。いったんは絞め殺されそうになったブナは、それに耐えながらも逞しく成長し、やがて、ひそかに蓄えたヘラクレズなみの力で、藤をずたずたに引きちぎってしまったに違いない。

    しかし、幸いというか不幸にしてというべきか、質屋は工賃は査定に入れませんし、細かいダイアの相場は安い。

    桜の季節を迎えたある日の早朝、Aさんの住む近くの警察署から彼女に突然の電話があった。その電話を直接に受けた彼女に、警察の担当者は、緊急事態が生じたのですぐに署まで出頭してほしい旨の要請を伝えた。何が起こったのかまったく事情のわからないままに、とりあえず彼女は警察署に出頭した。署内のとある部屋に通されたAさんはあまりのことに絶句し、愕然としてその場に立ち尽くした。彼女がそこで目にしたものは、死亡後まだ間もない若い男の縊死体だったからである。むろん、その遺体はかつて交際していた男のものだった。警察は彼女にまずその遺体の身元の確認を求め、そのあとで出頭を求めるにいたった状況の説明と彼女からの事情聴取をおこなった。明かになった一連の状況は驚くべきものであった。男はその日の未明、Aさん宅のすぐ近くの桜並木にやってくると、彼女の家の見える桜の木の一本を選んでよじ登り、その枝で首を吊って自ら命を絶ったのだ。しかも、彼はその死に臨んで、Aさんが真っ先にその遺体を確認せざるをえなくなるように巧妙な一計を案じてもいた。桜の季節に悲劇の物語を自作自演し、否応なくAさんをその舞台に引きずり込んでしまったのだった。男は自分の身元を直接明かすようなものは何ひとつ携えていなかった。そのかわりに彼は真新しい手帳をひとつ持っていた。そして、その手帳には、なんと、Aさんの名前と住所と電話番号だけが記入されていたのである。第一発見者からの通報で遺体を収容した警察署が彼女に出頭を求めたのは必然の成り行きだったのだ。結局、Aさんは極度の心理的混乱状態のままで、男の葬儀にまで顔を出さざるをえなくなった。望むと望まざるとにかかわらず、彼女は生前に男の書いた物語に最後までつきあわされるハメになってしまったのだ。相手の一存だけで強引に身勝手な物語の中に取り込まれ、それを人知れず背負って生きていかねばならない彼女の胸中は察するに余りあるものではあった。その事件があってからというもの、Aさんは自宅と駅とを結ぶ道筋にあるその桜並木を通るのが恐ろしくてならなかったという。とくに、仕事で帰りが遅くなったときなどには、その恐怖の度は極みに達し、人一倍芯の強いその気性をもってしてもそれに耐えるのは至難の業であったらしい。天性のにこやかさとは裏腹に、それからしばらくは、男性というものに対するある種の不信感や違和感をどうしても拭い去ることができなかったという。その後、一大災難ともいうべきその精神的ショックから彼女が立ち直ることができたのは、不幸中の幸いだったと言うべきだろう。

    という有名な一句である。キーン先生は、先の講演のなかで、この句は芭蕉の旅の精神の真髄を象徴するものだと賞賛しておられた。天候の回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉たちは道なき道を分け進みながら山刀伐峠を越え、尾花沢の集落へと抜けていったのである。

    首里攻防戦において最初の死闘が繰り広げられたのは、嘉数から西原にかけての丘陵地帯だった。普天間方面を見下ろす嘉数高地には沖縄守備軍がもっとも堅牢を誇る首里防衛陣地の一つがあった。首里本陣の前衛にあたる数嘉の陣地が陥落すれば首里城地下の守備軍司令部方面への進軍路が開けることは確実だった。四月二十日、米国第二十四軍団のホッジ少将は、軍団配下の第二十七師団司令官に対して、いかなる手段を講じ、いかなる犠牲を払っても、その日の日没時までに嘉数高地を占領するよう厳命した。しかしながら、日本側守備軍の反撃は凄まじく、さしもの米軍精鋭部隊も腹這い状態のまま一日に四、五十メートル前進するのが精一杯の状態だったという。結局、米軍が目標地点に進攻し、嘉数高の完全制圧に成功したのは一カ月以上も後のことであった。「嘉数高地の戦闘ほど日本軍に苦しめられた戦いはなかった」と米軍戦史にも記録のある通り、物量に勝るアメリカ軍にとってもそれは極限の戦いであったらしい。いっぽう、首里陣地正面、いうならば守備軍の心臓部を攻撃したのは第九十六師団だった。強力な火器をもって激しい攻撃を加えはしたものの、堅固なトーチカ深くに陣を構えて徹底抗戦を試みる守備軍精鋭部隊を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の日本軍守備兵を外に駆り出すには土を深く掘り起こすような容赦のない砲爆撃を加えるしかないと考えた。彼らはそれを「耕し戦法」と名づけていたらしい。ホッジ少将の命令一下、米軍は、陸、海、空の全軍をあげて一大総攻勢に転じ、通常の砲弾や爆弾のほか、当時としては新兵器であったナパーム弾やロケット砲などを守備軍陣地に雨霰と浴びせかけた。その空前絶後の猛爆によって与那原から首里にかけての一帯は一面焼け野原になり、すべての住居建物は跡形もなく崩壊した。物量にものをいわせた攻撃と並行し、米軍は地下壕や洞穴陣地の守備軍に対し一つの奇策を実行した。守備軍の各地下壕の上部に夜陰にまぎれて練達の狙撃兵を送り込み、壕の入り口付近に陣取らせて壕内から姿を現す将兵を片っ端から狙い撃ちにしたのである。そして守備軍を壕内に封じこめたところで、戦車を地下陣地の入り口に誘導し、壕内に向かって猛然と火焔放射を浴びせかけたり、強力な爆雷やガス弾を大量に投入したりした。「馬乗り作戦」と呼ばれるこの奇襲戦法によって、難攻不落と思われていた守備軍のトーチカや洞穴陣地は次々に無力化され、その中で多くの将兵が戦うことなく犠牲になっていきはじめた。沖縄守備軍の司令官は牛島満中将、参謀総長は長勇中将だったが、実質的に戦略を主導したのは高級参謀の八原博通大佐だったようである。彼は、米軍を至近距離に引き寄せ、短刀で闇討ちするにも似た「刺し違え戦法」をとることを考えた。米軍がある程度南進するまではさしたる反撃もせずそれを黙認し、機を見て守備軍地下壕内に隠してある約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ、一挙に相手の主力部隊を殲滅しようというわけだった。守備軍には砲術の大家として聞こえた和田孝助中将などもいて、砲兵隊の砲術技能は日本軍全体においても最高のレベルにあったという。だから、一斉砲撃開始の時期の判断さえ誤ることがなければ、大戦果をおさめるのは間違いないと信じられていたのである。実際には、そんな司令部の予想をはるかに超える米軍の猛攻と巧妙な奇襲戦略のために、大反撃にでる前に主力部隊全体が壕内に封じこまれてしまいかねない状態になってきた。しかし、この時点までは、沖縄守備軍はまだかなりの戦力を維持していた。米軍の攻撃の矢面に立ち激戦に耐えていた藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力はすでに半減していたが、トーチカ内で温存されていた和田中将配下の第五砲兵隊のほか、後方地区に控える雨宮中将麾下の第二十四師団、独立混成第四十四旅団残存部隊、さらには大田少将率いる海軍部隊などの兵力はなお健在であった。南部地区に控えるそれらの部隊を首里戦線に投入すれば、ある程度は米軍に反撃態勢をとることができると考えた司令部は、第二十四師団と独立混成第四十四旅団に北上を指示、それらの部隊は夜陰にまぎれて前線に進出した。こうして、首里本陣の沖縄守備軍司令部がその命運をかけた決戦の準備は整った。しかしながら、この時点で守備軍司令部首脳の間には戦術上の問題で意見の対立が起こっていた。長参謀総長や若手参謀たちが、全軍をあげて総攻撃に出る機が熟したと判断し、総力をあげて反撃に転じるべきだと主張したのに対して、八原高級参謀は、増援部隊を第二防衛線に配備し、最後まで専守持久の戦法をとるべきだと主張して譲らず、容易には収拾がつかなかった。その間にもじわじわと進攻を続ける米軍は、砲爆撃の狙いを守備軍司令部近辺に集中しはじめ、地下陣地の坑道内まで煙硝が立ちこめる事態にまでたちいたった。当然、守備軍の壕内においては日に日に緊張の度合いが高まり、司令部には殺気立った空気が漂いだした。壕内の将兵の間には、このまま持久戦を続け、一矢を報いることもなく敗北と死を待つのは耐えがたいという思いが募り、「攻撃は最大の防御なり」というかねてからの日本軍の教えにのっとって、この際一斉攻撃に転じるべきだ、という気運が高まった。そんな気運をうけて、司令部内の大勢は攻撃論者の急先鋒、長参謀長の主張を支持することで固まった。そして、最終的な幕僚会議における採決に基づき、牛島満司令官は、五月四日早朝を期して全軍を挙げ総反撃攻勢に転じることを決断した。この決定を不服とした八原高級参謀は、そのときの心境を「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」と記録している。八原の危惧したとおり、無謀な反撃攻勢策はほどなく無残な敗退を招き、守備軍は再び地下壕に潜って持久戦に転ずることになっていった。現実には持久戦術のほうも米軍にはほとんど通用しなかったので、八原の判断が正しかったとは言い難いし、いろいろな発言や行動記録を読み較べてみるかぎり、この人物の言動にはかなりの矛盾と自己弁護とも思われるある種の翳が感じられる。また、のちに彼のとった作戦が結果的には沖縄一般住民の大量死を引き起こすことになっていく。したがって、上官に対する八原の批判の正当さを全面的に信じるわけにはいかないが、彼の見解もそれなりには当たっていたのだろう。総攻撃を前にした司令部壕内では、本職の料理人の手になる山海珍味のご馳走に洋酒まで交えた戦勝祈願の祝宴が開かれたという。盛装した若い女性が居並ぶ守備軍首脳の間を酌してまわり、酒の勢いもあって皆が「明日の総攻撃は必勝間違いなし!」と口にするなど、意気軒昂たるものがあったらしい。どこまで本気だったのかはわからないが、長参謀長などは、「天気予報では五月三日から四日にかけては雨だ。敵の戦車は泥にはまって動けず、飛行機は飛べないだろう。五日の端午の節句には戦勝祝賀会をやるぞ」と怪気炎をあげる有様だったという。もっとも、この酒宴の数日前、長参謀長は意見を異にしていた八原高級参謀に向かって「いっしょに死のう」と涙をみせつつ自分の主張に同意を求めたというから、内心では全軍玉砕もありうることを覚悟していたのかもしれない。五月四日午前四時五十分、沖縄守備軍は総反撃を開始した。地下壕に温存されていた守備軍の四百門の主力砲がいっせいに火を吐き、砲声が首里丘陵に轟きわたるのに合わせて、九州本土の知覧や鹿屋から飛来した多数の神風特別攻隊機が海上の米艦船群に襲いかかった。戦術や兵器の優劣はともかく、死力を尽くしての守備軍の反撃ではあっただけに、一帯はたちまち修羅場と化した。五月四日の午前五時前、米軍第二十四陸軍砲兵隊員は、首里防衛戦線上に位置する二つの集落付近から火の玉が高々と打ち上げられるのを目撃した。そして、次ぎの瞬間、守備軍陣地から米軍の陣地に向かって猛烈このうえない砲撃が始まった。その砲撃の凄まじさは、米兵がそれまでに一度も体験したことのないほどのものだったという。しかし、守備軍の反撃攻勢はあまり長くは続かなかった。米軍も即座に火器や航空機をを総動員して応戦を開始、午前八時頃までには前線全体で守備軍の攻撃をほぼ鎮圧した。守備軍敗退の原因の一つは、味方の援護射撃を過信した主力兵団が攻撃開始とともに何の遮蔽物もない平地に無鉄砲に飛び出し、米軍の重砲火を浴びて退路を断たれ動けなくなってしまったことにあった。生存者の言葉を借りれば「まるで逃げ場を失ったカモを狙い撃ちするみだいに次々と撃ち倒されていった」のだという。たとえば、村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊などは、米軍の集中砲火のために進退ともに不可能になり、大半の隊員が戦車もとともなすすべもなく戦死した。また、総攻撃のために地下に温存してあった守備軍自慢の巨砲は、地上に姿を現し一斉に火を吹いたまではよかったが、それを待ち構えていた米軍艦載機の餌食となり、現実にはその威力をほとんど発揮することもなく、ことごとく破壊し尽くされてしまった。みるべき戦果をあげることのできなかった地上軍の戦闘に対して、神風特別攻撃隊のほうは、五月四日までにのべ二二二八機を出撃させ、米艦船十七隻を撃沈もしくは大破させるという戦果をあげた。だが、当初こそ攻撃成功率は二割に近かったものの、米軍が神風特攻機に対する防御策を強化するにつれ、その成功率は減少の一途をたどり、ほどなく多数の若い命が、むなしく南海の藻屑と消えていく結果になった。五月五日の午後六時、司令官牛島満中将は地下壕内の自室に八原博通高級参謀を呼び、「予は攻撃中止を決定した」と告げたという。総攻撃の失敗を認め、さらなる自陣の損害を食い止めるための決断だった。伝えられるところによると、司令官牛島は、それと同時に「残存兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人になるまで、沖縄の南の端に尺寸の土地の存するかぎり、あくまで持久戦をたたかい本土決戦の準備のために時をかせぎたい。今後は一切を貴官に任せるから、予の方針にしたがい思う存分にやってくれ」と告げたという。牛島中将はのちに摩文仁高地の洞穴内で自決しているので、八原参謀が伝えるその言葉が牛島の真意であったかどうかはもはや確かめようがない。陸軍士官学校長を務め、人格者だったとも言われる牛島の言葉にしてはいささかの疑問が残る気もする。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に兵を引いて持久戦を展開、結果的に十万人を超える民間人犠牲者を出すことになった作戦の実質的な指揮官が八原だったことを思うと、どこかに責任逃れのにおいがしないでもない。総攻撃が中止されたからといっても、戦いが終わったわけではなく、その後も日米双方には多数の犠牲者が続出した。とくに守備軍の犠牲者の大半は生え抜きの精鋭とうたわれた兵士であっただけに、もはや反撃攻勢は絶望的となった。総攻撃が失敗に終わったこともあって、最終的に累計すると守備軍は首里攻防戦全体を通じてその兵力の七十五パーセントを失ったと言われている。沖縄戦当時の鈴木首相は戦後の回顧談の中で「沖縄の日本軍が敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機として具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して守備軍はそうしてくれなかった」と述べた。のちにそれを知った八原は、「いやしくも一国の首相が、沖縄戦にこんな期待を寄せていたとすれば、沖縄の実情をご存知なかったものと言わねばならぬ。沖縄戦においては、現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていたのだ。決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に決戦を強いて本気で戦勝を期待するのは本末転倒も甚だしい」と反論している。八原は、大本営と現地守備軍との間には正反対に近い意志の乖離(かいり)があったことを指摘、その裏事情を明らかにしている。彼によると、沖縄戦の始まる前年あたり以降、上は参謀総長から下は参謀本部部員にいたるまで、一人として沖縄に直接視察に来たり、将兵を激励しに来たりした者はいなかったという。それどころか、沖縄方面の作戦について現地の作戦主任である八原自身とさえ親しく膝を交えて談合した大本営関係者は一人もいなかったらしい。しかもそのほんとうの理由は、那覇市の遊郭が全滅して享楽に耽ることができなくなったことや、南西諸島の海域に米軍の飛行機や潜水艦が多数出没しはじめ、身の危険を感じたからであったという。八原はさらに、大本営の幕僚たちのこの無責任な態度は、米国の場合とはあまりにも対照的だったと述べている。米国などでは、大統領や首相が自ら前線に出かけて将兵と語り合い、国政方針と戦争現場の実態との調整をはかるのが常だったが、当時の日本政府や大本営首脳にはそんな配慮などまるで欠けていたという。結局、大本営は、自らが導いた沖縄作戦に見切りをつけて増援部隊を送ることをやめ、沖縄本島守備軍、南西諸島海軍部隊、さらには動員された多数の沖縄住民総力をあげての戦いをみすみす見殺しにしたのだった。

    夏の風物詩と申しますと昔から西瓜にかき氷、ビールに枝豆、浴衣に風鈴、花火に蚊遣と相場は決まっております。

    国際穀物相場が大きく揺れ始めて久しい中で、つい最近興味ある言葉を 農家の老人から聞いた。

    静かな想いのこもる岩井さんのそんな詩を読んでいると、この人の不思議な造形の世界の奥に確固として存在するものがそれなりに見えてくるような気がしないでもないが、それにしても、こんな独創的な作品群を生み出すなんて、なんという豊かな遊び心の持ち主なのだろう。そう思うと、私は岩井澄夫さんにどうしてもお会いしてみたくなった。しかし、残念なことにその日はたまたま平日だったので、個展会場ではその願いは叶わなかった。農工大で事務官を務めておられる岩井さんは、当然その日はお仕事だったからである。そもそも、国立大学の文部事務官を務めておられる方ということになると、世間では金属製のサイコロみたいな人物だとその相場がきまっている。その金属サイコロみたいなはずの人物が、円や球というよりむしろ無定形に近い、これほどに自由な曲線や曲面をもつ作品群を生み出すなんていったいどういうことなのだろう。岩井さんは美大など出ておられず、彫刻の技術はすべて独学なのだと伺ってはいるが、明らかにその作品の質と量は趣味の域を超え、本職の彫刻家の域に達している。さらにまた、国家公務員としての本務をこなすかたわらでこれほどに膨大な数の作品群を創造できる秘密はどこにあるのだろう。農工大の事務室が芸術工房に変わったというなら話はわかるが、そんなことはありえないし、それにくわえて岩井さんのアトリエは御夫妻の出身地の松本市にあると伺っている。そのアトリエに通えるのは休みの日に限られるだろうから、状況ははますますもって容易でない。それにもかかわらず、府中のご自宅や松本のアトリエにはもっともっと膨大な数の作品が眠っているというのである。いったいどうなっているんだろうという率直な疑問と、その創作力の背景を探ってみたいという思いが、野次馬根性の塊みたいな私の胸中にむらむらと湧き上がってきたのは当然のことではあった。個展に出向いた翌日、お嬢さんの広乃さんに電話をし、作品を拝見した感想などを報告かたがたゴールデンウィークに北安曇野の穂高方面に行くかもしれないと伝えると、それからしばらくして、岩井澄夫さんから直接にお手紙を賜った。「先日はありがとうございました。私の前に娘がデンと座って先生のことを話しております。GW中に先生、もしかしたら穂高方面にお出掛けになる由……」という一文ではじまる自由闊達な墨書のその手紙には、連休中は松本に滞在しているので、ぜひアトリエを訪ねてもらいたいという主旨のお誘いの言葉が記されていた。渡りに舟とはこのことだと思った私は、高ボッチ山頂から岩井さんのアトリエに電話をかけ、作品制作のお邪魔になるだろうことを百も承知で押しかけてきたようなわけである。車を庭先に駐め、案内されるままにアトリエの玄関をくぐって室内に入った私は、次の瞬間目にした光景に思わず息を呑んだのだった。

    <独創的な農産物加工品>食後、安森洞を見学し終えた我々は、次に広見川の支流、大宿川の中流にある清水という集落に案内された。「もぎたて加工つぼみグループ」という、農産物加工研究および生産販売推進組織の会長、岡本高志さんや、同組織の中心メンバーの山下猛さんらに会って話を聞くためである。広見町では町との協力態勢のもと有志グループの手によって独創的な農産物加工製品がいくつも研究開発され、市販もされているようだ。八十歳を超えてなおかくしゃくとして研究心旺盛な岡本さんは、鬼北山芋研究会々長なども兼務しておられるとのことだった。車が清水集落に近づくと、オレンジと黄の中間色の地色の上に「うこん加工所」と大書された特徴のある看板が眼にとまった。無意識のうちに「こ」の字と「ん」の字を入れ換えて読んでしまった私は、一瞬、いくらなんでもあのシロモノを加工するところじゃないよなと、妙な連想をしてしまった。大型の蘭に似た植物の根を粉末化してできるウコンは黄色系染料として知られ、ビルマ僧らが着ている法衣や美術工芸品などを包む時に用いる黄色のウコン布などを染めるのにも用いられる。ただ、色が色だけに話はなんともややこしい。ガソリンスタンドに隣接するその「うこん加工所」で、岡本さんやスタンドの経営者でもある山下さん、さらにはあとから現れた愛冶地区ウコン組合の組合長さんなどから農産物加工の苦労話を伺ったのだが、その談話のなかで岡本さんも「あの字を読み間違えて首を傾げる人がよくあるんですよ」と笑っておられた。もしかしたらあの看板には岡本さんたちの遊び心が秘められているのかもしてないと思ったりもした。この農産物加工所では地元産のウコン、山芋、トマトなどを原料にした様々な加工食品の研究開発が進められていた。なかでも、高温多湿で日当りのよいところを好むウコンの栽培は広見町の気候や地形に適しており、この地域の特産物の一つになっている。ウコンの薬効は品種や肥料の成分によってかなり異なるとのことで、岡本さんのお薦め品は紫春ウコン粉末だとのことだった。とても八十代には見えない岡本さんの健康の秘密はやはりウコンと四万十川源流の清水なのであろうか。栽培されたウコンは、漢方薬としても名高いウコン粉末にするほか、ウコン飴、ウコン入りカレー粉、ウコン入りラーメンなどと、将来の需要を狙って様々な加工活用の試行研究がなされているらしい。変わったところではウコンをスライスし砂糖でじっくりと煮詰め乾燥させたウコン華という加工品などもあった。ウコンの葉や茎のほうは細かく切り刻んで堆肥に混入したり、やはり細かく裁断して乾燥させ入浴剤にするといった利用法も考えられている。ウコン飴とウコン華は我々も試食させてもらったが、なかなかの味だった。地元の特産品展示販売所「森の三角ぼうし」では既にそれらは販売されているそうだが、味もよく健康にももってこいとなれば、もうなにもいうことはない。私も地元で売られている紫春ウコン粉末を購入して帰り試用してみたが、他所のウコンに比べよく精製されていて品質も高く、飲みやすい感じだった。ウコンに関心のある方は愛治地区ウコン組合(0895-46-0011)か「森の三角ぼうし(0895-45-3751)」に問い合わせてみるとよいだろう。鬼北自然薯として地元で人気のある山芋の加工研究もいろいろと進められているようだった。カルカン饅頭やお好み焼き、各種麺類などの素材としての活用などは従来から試みられてきたものだが、面白かったのは自然薯をすりおろしてそのままの状態で長期保存し、必要量を必要に応じて使えるようにする商品の開発研究の話だった。最初はすりおろした自然薯を乾燥粉末化し水を加えて復元を試みてみたが、パサパサしていてとても使い物にならなかったという。そこで、水を加えて復元する際に適量の糖分を加えてみるなどの試行がなされ、それなりにねばりけを復元することはできたのだそうだ。だが、砂糖を入れ過ぎるとこんどは逆にひどくねばってどうにもならない状態になってしまう有様で、その調整が難しく味のほうもいまひとつだったらしい。そこで考えられたのが、すりおろした自然薯を真空パックにして液体凍結法という特殊な技術で冷凍保存しそれを解凍する方法だった。実際に実験してみると、ねばりけも味もすりおろした直後の状態とそう大きな変わりはないことがわかったらしい。付属技術や必要設備の問題などもあって完全な商品化までにはまだ時間がかかるというが、おおよその目途はついてきているらしい。実をいうと、この液体凍結法の技術を指導提供しているのがほかならぬ三嶋洋さんである。三嶋さんが研究している冷凍技術は広見町独自の他の重要プロジェクトにも活かされることになっており、それが本来の三嶋さんの役割でもあるのだが、それについては後述する。農産物加工商品の一つトマト飴も試食させてもらったが、十分甘くてトマトの酸味などもほとんど感じられず、それがトマトを原料にしたものだとはとても信じられないくらいだった。それにしても、この「もぎたて加工つぼみグループ」の創造力と実践力は実に見上げたものである。進取の精神と独創的気質に満ちみちていたかつての宇和島藩の精神文化の伝統が、いまもこの地には脈々と生き続けているのかもしれない。農産物加工品の話が一段落したあと、岡本さんは、清水の集落からまだずっと奥まったところにある自然薯やウコンの栽培地に我々を案内してくれた。はじめに立寄った自然薯畑には栽培種の自然薯が見事になまでに繁り育っていた。野生の自然薯掘りをずいぶんとやったことのある私はその大変さを知っていたので、これだけ茎の太い芋だと完全に掘り出すのは容易なことではないのではないかと岡村さんに尋ねてみた。すると、畑栽培の場合には根を垂直に伸ばさせず、細長いパイプ状の容器を土中に斜めに埋めてその中で成長させるから、掘り出すのは容易だという返事が戻ってきた。うーん、そうか、するとこういう自然薯は「自」の字を「他」の字に置き換えて「他然薯」とでも呼ぶべきなのかななあなどと、妙なことを考えたりもした。最後に案内されたウコン畑には、大きな葉を茂らせて多数のウコンが育っていた。ウコンの栽培現場を目にするのは初めてだったが、密生度は思いのほか高く、これだと作付面積がそう広くなくても相当量の生産が可能な感じである。そのためもあってか、一面ウコン畑というような状況ではなかった。愛治地区ウコン組合長さんによると、現在の需要状況では、ちょっと作付を多くするとたちまち過剰生産になってしまいかねないから、ほどほどに生産を控えているのだとのことではあった。帰り際、岡本さんに促され、ステビアという小さく細長い植物の葉っぱの先をほんのちょっとだけ噛んでみると、突然口いっぱいに甘味が広がった。砂糖の三百倍の甘さの成分を含む植物なのだそうで、砂糖のかわりにこの植物の葉の粉末を用いた製品をなにか考えたいということでもあった。岡本さんがたと別れたあと、我々は広見町の特産品展示販売所「森の三角ぼうし」へと案内された。なかなかに機能的で洒落た造りの販売所で、地場産の各種野菜類をふんだんに置いた生産組合運営の市場なども同じ敷地に設けられている。値段のほうも見るからに安い。観光旅行者のみを目当てにした単なる土産物屋ではなく、町民の日常的な生活とも密接な関係をもてるように店の造りや商品の置き方を配慮してあるところなどはなんとも心憎いというほかない。特産品販売展示コーナーのほうもめぐってはみたが、土産物と安価で良質な日用品とがおりまぜられており、販売商品の種類も量も想像以上に多かった。商品の多くに生産者の名前やメッセージが付記されているのも大きな特徴で、どの筋から出されたアイディアなのかは知らないがなかなかに好感がもてた。もちろん、各種のウコン加工品なども販売されており、小瓶入りの紫春ウコン粉末には、さきほどお会いしたばかりの岡村高志さんの名前の記されたものなどもあった。また、木材の産地だけあって各種の木工品なども都会では考えられないような安価で売られており、腰掛けにも物置き台にも調度品にも使えそうな三千円前後の大木の切り株などは、置く場所さえあれば車に積んでもって帰りたいくらいであった。店長の松本周作さんによると、この森の三角ぼうしは資本金を森林組合が三分の一、広見町が三分の二出資してできた第三セクター運営の特産品販売店で客筋は町内者と町外者が半々くらいであるという。松本さんに評判のよい特産品は何かと尋ねたところ、ユズと蜂蜜とを主成分にした飲料原液「ゆずの里ロイヤル」、ポン酢醤油「ゆずの里」、四国ならではの原料を用いた「ほんぶし醤油」、チリメンジャコ入りの「いりこ味噌」、鮎入りの「鮎味噌」、小瓶入りウコン粉末などの名があげられた。ゆずの里ロイヤルは私も購入して東京に戻り試飲してみたが、他に類のない味と風味をそなえた珍しい飲み物だった。最後に我々が見学したのは広見町のユニークな町おこしプロジェクトの一つ、雉の養殖施設だった。広見町はその地域性を活かし、平成二年頃から全国的にも珍しい雉の養殖事業に取り組んできている。国内の鳥獣保護法などの規制もあって日本産の野生の雉をもとに養殖事業を行うことはできなかったので、広見町は中国産の高麗雉の一種を輸入しそれをもとに養殖事業を展開してきた。一般には入手が難しく高級なイメージのある雉をうまく養殖し大量に出荷できるようになれば、将来的には町の主産業の一つになりうると広見町の事業推進担当者たちは考えたようである。

    * ちょっと急に一筆書きたくなりました。というのも、会社から帰ってテレビをつけていたところ、画面は見ていな かったのですが、非常に共感する意見をおっしゃっている方がいました。 その方は ? IT革命を米国の物真似で行うのではなく、真似るならその精神「率先して挑戦する」を真似よ。 ? ブロードバンド(高速インターネット回線)も良いが、それよりも前に、役所の書類のフォーマットを全てネットから引き出せるとか、漢字の問題といったこと を先に行うべき。 ? 日本は携帯電話を生かした「日本型IT革命」を行うべき。 というようなことをおっしゃっていました。あまりに興味深かったので最後に名前を見ると、その方こそ「坂村 健」さんでした。 それとは別にもう一つ、経済専門家のリチャード・クーさんが次のことをおっしゃっていました。 「バブルの時も今も、日本人の貯蓄率(給料から貯蓄に回す金額)は変わっていない、これはもう遺伝子に組み込まれてい るとしか言いようがない」と。 その後、森首相の経済政策は間違っていない、もっと税金投入を行うべきだとも。 クーさんの「遺伝子発言」には共感しますが、仮に税金投入が必要だとするならば、もはや資本主義の限界、拡大再生産の 限界のような気すらします、(資本主義の権化のような会社に勤めていて何ですが)。株価もバブル以降最低を記録したとかニュースでは騒いでいますが、はっ きり言って、実質とは乖離した雰囲気に左右されるだけの相場に何の価値があるのでしょうか? (今日の12000円割れは、PCの心臓部CPUを作っているインテル社の業績が悪化したせいらしいですが、高々PCの一部に全経済を動かす力なんてあり ません !!)。 最後に。 仕事の方は来週末で落ち着きそうです。よろしければ、新しいノートPCの件も含め、いろいろお話しできれば、と思って います。先生の24,25日のご都合はどうでしょうか? それでは、花粉症お大事にしてください。

    米軍第十軍司令官バックナー中将は、沖縄守備軍の総反撃が失敗に終わったのを見届けると、配下の全軍に五月十一日を期して総攻撃にうつるように命令した。いっぽうの守備軍は総攻撃に失敗したあと、すぐに持久戦態勢に戦略を切り替え、兵力の減少を考慮して戦線を首里周辺に縮小した。米軍が総攻撃に転じたこの日には、神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団めがけて猛然と決死の体当たり攻撃を敢行した。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが、一部の特攻機は米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与え、やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、他の特攻機がそのエンタープライズをも大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移されたという。陸、海、空、海兵隊の連携作戦のもと全戦線にわたる総攻撃を開始した米軍に対し、守備軍も最後の死力をふりしぼって頑強に抵抗した。勢い、首里の守備軍本陣に対する砲撃は過去のそれをはるかに上回る激烈なものとなった。米軍主力部隊は昼夜の別なく戦車砲や機関砲、臼砲、ロケット砲を撃ちこみ、じわじわと首里本陣に肉迫していった。米軍がシュガー・ローフと呼んだ小さな丘をめぐる攻防戦は、ひときわ凄まじいものであった。この丘が日米どちらにとっても戦術上の要所になっていたため、米第六海兵師団は一挙にその地を占拠しようと、多数の戦車を送り込んで攻め立てた。しかし、首里の西方に位置するこの丘陵地を失えば司令部陣地がたちまち危機に瀕することは目に見えていたので、守備軍も第六十二師団と独立混成第四十四旅団の一部部隊を配置し、同地を死守する構えにでた。物量ではるかに勝る米軍は、攻防戦の開始とともに寸刻みの砲撃や爆撃を加えて日本軍の動きを封じ、戦車を盾に攻め進んだ。その猛攻を通常の戦法で防ぐことは不可能と判断した守備軍兵士たちは、爆雷を抱えたまま次々に洞穴陣地から飛び出し、攻め寄せる米軍の戦車や砲兵隊に向かって突入、捨て身の体当たり攻撃を敢行した。こうしてシュガー・ローフの丘を両軍で一日数回も取りつ取られつするという激闘が続き、戦いが始まってから六日後の五月十八日になってようやくその丘は米軍の手に落ちた。勝つには勝ったが、あまりにも激烈な戦闘のため、米軍第六海兵師団は二六六二人もの死傷者と一二八九人もの戦闘疲労症患者、すなわち発狂者を出す結果となった。これらの精神異常者を治療するため、米軍は特別に専門の野戦病院を設立しなければならなかったという。むろん、守備軍側の死傷者は米軍の数倍にものぼったと推定される。シュガー・ローフ制圧に目途をつけた第六海兵師団主力部隊は、その損傷にもめげず、次ぎに首里本陣北側に隣接する沢岻および大名の両高地の攻撃に取りかかった。いかなる犠牲を払っても同地を死守せよと牛島司令官から厳命を受けた現地守備軍は、力のかぎりを尽くしたが、臼砲や艦砲射撃の猛撃に支援された海兵隊の手によって沢岻高地がまず占拠された。第五海兵連隊の増援をうけた米第六海兵師団の猛攻に、大名陣地守備軍は果敢に立ち向かい、しばらくの間は米軍をまったく寄せつけなかったが、米軍の攻撃はいつにもまして執拗だった。通常砲弾はいうにおよばず、爆雷や火焔放射器からロケット砲、ナパーム弾にいたるまでのあらゆる火器が動員され、ついに大名高地一帯の守備軍陣地は陥落した。天然の要塞石嶺高地の攻略にはさしもの米軍も手を焼いた。米軍のある中隊は総員二〇四人で石嶺高地に夜襲をかけたが、一五六人を失った。一二九人からなる別の攻撃隊は生存者が三〇人だけ、交替要員として派遣された五八人の小隊などは、わずかに三人が生還しただけだったという。それでも徐々に激戦を制し、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した米軍は、いよいよ司令部に直撃弾を浴びせはじめた。そして、風前の灯火とも言うべき状況に追い込まれた首里本陣の陥落はもはや時間の問題となっていた。守備軍本陣は三っの強固な防衛線で守られていた。右翼には第二十四師団が陣を構え、中央には第六十二師団が陣を布いていた。また、司令部陣地の東北側には防衛線中もっとも堅固で難攻不落とみなされていた弁ヶ岳陣地があった。ところが、大方の予想に反し米軍が真っ先に攻略したのは、平地からそこだけ急に盛り上がった不落のはずの弁ヶ岳陣地だった。米軍がチョコレートドロップと呼んだ標高一六七メートルの弁ヶ岳陣地は、歴戦部隊の米七十七歩兵師団の猛攻撃に合い、あっというまに陥落してしまった。制空権を奪われていたため、米軍機による空中からの支援攻撃や、落下傘部隊の投入によってあっけなく壊滅させられたのだった。五月二十一日、米軍はいよいよ首里市内に進軍しようとしていたが、この日沖縄はたまたまひどい豪雨に見舞われていたという。肉迫する米軍を前にしてもはや万策尽きた守備軍首脳部は、首里で玉砕する覚悟を固めつつあった。ところが、八原高級参謀だけは、首里を脱出して南部の喜屋武岬方面への撤退を画策していた。そのため彼は腹心の参謀長野英夫に密かに命じて、守備軍司令部のとるべき方策を考えさせた。暗黙のうちに八原の意向を汲んだ長野参謀は、次のような三案を提示したという。

    ――この講演を終えたらすぐに私は駐車場の車に戻り、ネクタイをはずしスーツを脱いでTシャツとジーンズに着替えます。そしてそれから、福島、宮城、山形方面を目指して北上するつもりです。極力経費を節約した車で寝泊りの旅ですから気ままなものなのですが、そのぶん成り行きまかせにもなりますから、実際にこのあと何処をどう旅することになるのかはわかりません。近年は旅というと海外旅行と相場がきまっているようですし、紀行文なども海外ものがほとんどのようなのですが、なぜか私は日本の旅にこだわっています。ひとつには、日本語による表現の対象としてはやはり日本の風土がもっとも相応しいと、かねがね考えてきているからなのかもしれません。また、どんな小さな日本の風景にも世界のあらゆる風景に共通するもの、換言すれば、世界中の風景の縮図とでもいうべきもが秘められているとおもうのです。そんな風景の縮図を見つけ出し、その本質を的確に描写することができないとすれば、結局、私には紀行文など書く資質も資格もないということになってしまうでしょう――最後にそのような意味のことを述べて、私はこの日の講演をなんとか無難に締め括った。

    それ程、世界はしのぎを削る毎日であるにも拘らず、なんともし難い国政の揺ら ぎを感じてしまうのは私だけであろうか? ゼロ金利で行き場を求めていた円が ユーロを上げ、ドルを上げおかしなマグマを相場に積み上げて来ていたが、これ に投資信託を通して国内の円資源も乗って加速してきたようだ。為替バブルにク ラックが現れる日も近いと読んでいるが、問題はそのいく末であろう。複雑に絡む 為替利権にロシアや中南海が参加してきた事で収拾の兆しは見え難くなっている。

    コメント

    タイトルとURLをコピーしました