政策修正の日銀 見通しの甘さ露呈
特に、日銀が過去の実績から乖離した「2%」という高い目標を掲げる限り、正常化を進めるテンポは遅いだろう。名目の政策金利がインフレ率の実績値やインフレ期待を下回り、実質金利がマイナス圏にとどまった緩和的な状況がまだ長引く可能性が高い。
インフレ率が2%目標を実現したと日銀が判断する上で今後ポイントとなるのは、来年2024年の春季労使交渉(春闘)と海外経済の先行きであろう。これらの動向を見極めるためには来年以降まで待たざるを得ない。そういう意味では、YCCに持続性を持たせることを狙った今回の政策変更は、物価基調を見極めるために必要な時間稼ぎをすることが可能になったという点で、一定の成功を収めたと評価することができるかもしれない。
日銀は、今回のYCC柔軟化を金融政策正常化への第一歩ではなく、あくまで将来の物価や期待インフレ率の上振れに備えたものであると説明している。植田総裁は会見で「基調的な物価上昇率が2%に届くというところにはまだ距離があるという判断は変えていない」と発言している。7月決定会合で公表された経済・物価情勢の展望(展望レポート)における消費者物価指数(除く生鮮食品)前年度比の政策委員見通しの中央値は、2023年度は4月時点の1.8%から2.5%に大幅に引き上げられた一方、2024年度は2.0%から1.9%へと若干の下方修正、2025年度は1.6%で据え置きとなった(図表2)。
副作用が懸念されるという点では、長期金利の上限設定も短期金利のマイナス化も同じである。マイナス金利政策の効果については、時間の経過とともに金融仲介機能の低下を通じてプラス効果が薄れ、むしろ実体経済に負の効果を及ぼすとの指摘もある3。こうした副作用をより重視すれば、たとえインフレ率が物価安定目標の2%に持続的・安定的に達していない状況であっても、「短期金利の柔軟化」の妙案を日銀が先手を打って打ち出してくる可能性はあるだろう。
来年2月から3月にかけて本格化する春闘で、賃金上昇率が上振れ、それを受けて4月の金融政策決定会合で日本銀行は、2026年度までの物価見通しを2%程度にまで引き上げたうえで、2%の物価目標が達成されたとの判断を示し、マイナス金利解除に踏み切る、というものだ。しかし、そのように決め打つことには、相応のリスクがあるだろう。
今回の政策変更について日銀は、「将来の」物価・金利上昇局面でYCCが内包する副作用、すなわち債券市場の機能低下や為替市場を含めた金融市場のボラティリティ上昇の顕在化をあらかじめ和らげるためと説明した。金利上昇局面でのYCCの副作用は、2022年に円金利に強い上昇圧力がかかった際に明らかとなった。インフレの高進に対応し欧米で政策金利が急速かつ大幅に引き上げられたことを受け、海外長期金利が上昇したほか、日銀の政策修正観測の高まりを受けて円金利にも上昇圧力がかかった。こうした中、10年債利回りが上限で抑えられたためイールドカーブに歪みが生じ、債券市場への悪影響が懸念された。また、YCCが市場の内外金利差の拡大期待を助長し円安急進を招いたことも、副作用として強く意識された。
これに対して日銀は、2022年12月決定会合で長期金利の変動幅を拡大するなど、イールドカーブの歪みを改善する対応に追い込まれた。今回の2023年7月決定会合時点では、2022年中にみられた副作用は明白には生じていなかったものの、このときの経験は日銀にとって苦いものであったようだ。植田総裁が7月決定会合後の記者会見で「問題が生じてから事態を収束させる方が難しい」と説明したとおり、現時点ではなく「将来の」副作用を未然に防ぎ、緩和的な金融環境を維持するための政策変更であった。
実際には、2%の物価目標達成と整合的なベアの水準は3%よりも高いのではないか。物価上昇率のトレンドが2%程度であったとみられる1990年初頭の基本給の上昇率(所定内賃金上昇率)は、1991年で4.4%だった。この点から、2%の物価目標達成と判断できるために必要な来年の春闘での賃上げ率のハードルは4%~5%とも考えられる(コラム「連合の賃上げ目標と日銀金融政策」、2023年10月19日)。
日本銀行は2023年7月の金融政策決定会合(7月27日・28日)でイールドカーブ・コントロール(YCC)の運用柔軟化を賛成多数1で決定した(図表1)。この変更により、これまでの長期金利の上限0.5%は厳格な上限ではなく「目途」に柔軟化され、0.5%~1.0%のレンジ内の金利形成はある程度市場に委ねられることとなった。その上で、1.0%を超える金利上昇は指し値オペで抑えられることとなり、長期金利の上限は事実上1.0%となった。
YCCにおける短期金利(マイナス0.1%)から直近の総合のインフレ率(前年比)を差し引いた実質的な政策金利はマイナス3.1%で、これは主要通貨の中でも突出して低い。プラス圏まで押し上げるには3%程度の利上げが必要だ。
しかし現状はそこまで至っていないことから、日本銀行は修正後のYCCの枠組みを維持することに引き続き注力するだろう。10月30・31日の次回金融政策決定会合では、本格的な政策修正のみならず、YCCの追加の柔軟化策を実施することもないだろう。
現時点で国内の経済・物価動向を取り巻く不確実性は極めて高い。長年のデフレ環境のもとで根付いた企業の賃金・価格設定行動に変化の兆しがみられる中、金融政策の先行きについても、固定観念を捨てて、決定会合ごとに開示される情報や多角的レビューを注視していく必要がある。みずほリサーチ&テクノロジーズ(みずほRT)は、来年公表予定の多角的レビューも踏まえ、2024年後半にもマイナス金利解除に踏み切る可能性は相応にあるとみている。
10月30・31日の次回金融政策決定会合では、本格的な政策修正は見送られる可能性が高い。10年国債利回りがイールドカーブ・コントロール(YCC)の事実上の上限の1%に張り付いた状況が続き、日本銀行が大量の国債買い入れを余儀なくされれば、日本銀行は上限を引き上げる、あるいは上限を撤廃するなどのYCCのさらなる運用柔軟化に踏み切る可能性が出てくる。
もっとも実際は、日銀の物価見通しは今回大きく上方修正されたと捉えるべきであろう。中長期的な物価の判断を行う上で重要なのは2024・2025年度であるが、たしかに中央値だけをみれば、依然として物価目標の2%を下回って推移するとの日銀の見方は、前回の4月展望レポートから変わっていない。一方で、物価見通しのリスクバランスをみると、2024年度は上振れリスクが新たに指摘され、2025年度は下振れリスクが削除された。このため実質的には、物価見通しが2023年度から2025年度までの見通し期間にわたって全面的に上方修正されたと解釈できる。この物価見通しの上振れは、2024、2025年度の実質GDP見通しには変化が見られなかった点を踏まえると、需給ギャップの改善といった景気変動要因によるものではない。日銀が当初想定していたよりも、企業の賃金・価格設定行動に変化が強まっていることが反映されたことが主な理由だと考えられる。
日本銀行の植田和男総裁は4月の就任以来、2度目の政策修正に踏み切った。長期金利の1%を超える上昇を容認したのは、想定以上の金利上昇圧力が背景にある。日米の金利差拡大で物価高を助長する円安が進行する恐れもあり、先手を打った形だ。日銀は7月に上限を引き上げたばかりで、想定外の苦渋の決断だったとみられる。
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