明治 ヨーグルト約12万個を回収

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明治 ヨーグルト約12万個を回収
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明治 ヨーグルト約12万個を回収

食品メーカー「明治」は動物用の医薬品の成分が含まれている可能性があるとして関西工場で製造した「ブルガリアヨーグルト」約12万個を自主回収すると発表しました。

急成長を遂げる一方、長蔵と謙一の間で、保守性と革新性、明治と昭和の時代感覚がしばしばぶつかり合うこともあった。しかし、長蔵は保守的なだけの人物ではなかった。昭和24年に、来るべき自由販売を見越して手がけた技術革新が、アルミ箔を使った全く新しい包装システム「アルミ箔紙函包装(またの名を「紙函流し」)」であった。 それから3年後の昭和27年、今度は謙一が羊羹を紙函に直接流し込む充填機を日本で初めて完成させている。充填は1分間に5本から20本にスピードアップし、量も正確で、かつ衛生的であった。この充填機の開発は、その後の大量生産オートメーション化の基礎となるもので、米屋にとって一大転換点といえる。 生産性を上げるうえで壁となっていたのは、熱い羊羹が冷めるまでにかかる時間である。朝充填した羊羹が、翌朝にならなければ包装に取りかかれない。謙一は、昭和30年、冷却装置の開発を決断した。紙函に羊羹を充填したら冷却トンネルを通す仕組みで、32年には冷却時間が2~3時間と一気に短縮され、「朝つくった羊羹を昼には包装できる」という、羊羹づくりの概念をくつがえすものであった。 昭和30年には、東京都内の主要百貨店に進出するという第一の目的はほぼ達成していた。続く31年には、もう一つの全国展開策として、防衛庁への納入を果たしている。防衛庁共済組合の売店は北海道から九州まで点在しており、米屋の名を日本中に知らせる効果は絶大であった。 またこの時期、昭和29年には米屋天理店、32年には大阪店を開設している。

今をさかのぼる450年ほど昔、室町時代末期の永禄年間の頃、公津ケ原の薮の中から不動尊像が発見されたという。近郷の名主たちが不動尊像をしかるべき場所に運ぼうとしても、誰ひとり背負うことができなかったが、諸岡家の遠祖にあたる成田村の名主・諸岡三郎左衛門だけは楽々と背負うことができた。いたく心を打たれた三郎左衛門は、「不動尊の御心は、わが村・成田にあった」と、成田村の自宅の屋敷に遷したという伝承がある。これが成田山新勝寺のご本尊、不動明王像であった。 米屋の創業者である諸岡長蔵は、このように成田不動尊と深い縁のある諸岡家の9代目として、明治12年1月6日に誕生した。 長蔵は生まれつき体が弱く、少年期は常に病気との闘いだった。明治28年、「医術がだめなら、残るは神仏の加護にすがるほかはない」と16歳にして天理教の信仰に一条の光を見出す。そして「人を助けることが、すなわち自分を助けることである」という人生の指標を得た。その哲学は、その後の彼の人生を貫き、米屋の土台を支えていくこととなる。

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