サンタの袋は軽めか 欧米インフレ
1995年の「THE CLASSIC SOUND」から4年後の1999年、DECCAは新しいリマスタリングを開発しました。現在においても非常に評価が高い伝説のリマスターシリーズ、「DECCA LEGEND」です。今回は96kHz/24bit企画のハイ・サンプリングによるリマスタリングであることを明記しましたが、それ以上に評価を得たのが、CEDER Audio社製の違和感のとても少ないノイズリダクションシステムと、dCSのDDコンバーターによる96kHz/24bit→44.1kHz/16bit変換でした。dCS社はこの「DECCA LEGEND」の仕事で評価を確立し、後にオーディオファイルのみなさんの垂涎の的となる民生用オーディオ製品を抱えるハイエンド・メーカーに成長しています。「DECCA LEGEND」は「THE CLASSIC SOUND」以上にアナログライクで柔らかい、自然な音質であるというのが定評です。LEGENDはシリーズに選んだ演奏に対してつけられた形容ですが、リマスタリングとしてもLEGENDな存在として語り継がれています。現在の最新マスタリングでは、「DECCA LEGEND」の音は再現できないだろうとのことです。
日本独自リマスターのHS2088から1年半ほど後、本家EMIから待望のリマスター規格が登場しました。ビートルズ縁のアビーロードスタジオで行われた新たなデジタルリマスタリングは、ABBEY ROAD TECNOLOGY、略称ARTと名付けられ、「1897-1997 100YEARS OF THE CENTURY」というEMI100周年記念企画として1997年にスタート。EMI所有の親マスターテープを96kHz/24bitでハイ・サンプリングリマスタリングされたものでした。ですがARTリマスターのポイントはハイ・サンプリングではありませんでした。ハイ・サンプリングは他社でも既に行われており目新しさはありません。ARTの売り文句は、「Prism SNS System」というノイズシェイピング技術の採用、つまり最新のノイズリダクションにあったのです。多くのアナログ録音や初期デジタル録音がARTリマスタリングされて発売されました。しかし、このノイズリダクションの評価は良くありませんでした。ノイズの除去は高いレベルを示した代わりに、高域の刺激が強くなり、低音の密度が薄くなったという、音楽的な音響として問題を残したと言われています。EMIもPrism SNS Systemの活かし方に問題があったと認識し、ART化のスケジュールがまだ途中であったにもかかわらず、2001年から、ノイズリダクションをやり直した新たなARTリマスタリングを開始します。これは第2期ART、または後期ARTと呼ばれるようになり、従来のARTは初期ARTとして区別されるようになりました。初期ARTとして既に発売されていた音源も、新たに後期ARTをやり直して別シリーズとして再発売されています。後期ARTシリーズは「GREAT RECORDINGS OF THE CENTURY」としてリリースされています。後期ARTはノイズリダクションを見直したために、音質の評価も上がりましたが、それでも及第点止まりという辛口評も目立ちます。私もARTリマスタリングの国内盤をいくつか買っていますが、実は国内盤はART表示はあるものの、初期ARTなのか後期ARTなのか明記されておらず、どちらなのか分からないのです。個人的な音質評価もここでは控えさせていただきます。
旧ポリグラム(現ユニバーサル・ミュージック)時代のドイツ・グラモフォン、DECCA、PHILIPS音源を中心としたリマスターがあります。「eloquence」というシリーズで、24bitでのハイ・サンプリングなのですが、このリマスターの特徴はAMSI(AMbient Surround Imaging)で擬似的なサラウンド音響に調整した上で、エミール・ベルリナー・ハウスで開発されたオーセンティック・ビット・イメージングというダウンコンバート技術で24bitから16bitに変換しています。擬似サラウンドといっても、人工的に音場を広げたイメージではなく、むしろ、元の音源よりも少し空間が広いかも?という程度の控えめなものでした。「eloquence」シリーズは無難にまとめたリマスタリングという感じで、オリジナルスのようなクリアさやSNの高さはありません。しかし高域の柔らかさはオリジナルスでは味わえないもので、標準的な低音も悪くありませんでした。
わが胸にナイフを突き立てるというたいそうな狂言でとうとう結婚の許しをかすめ取った貞松正一郎のバジル。その床屋の若者が、してやったり、ガバとばかり跳ね起きて、正木志保ふんする恋人のキトリと手を取り合うあの前半のヤマ場まで来て、ヤッ、今日の「ドン・キホーテ」はオッソロシクにぎやかだ、と不意に思った。なんとも会話がにぎやかだ、とそう気づいたわけである。キトリの父親のロレンツォ(松原博司)はどうも短気で、しょっちゅうがなりたてている。バジルの恋敵のガマーシュ(岩本正治)は、漱石の赤シャツみたいなネチネチことばでねっとりとくどくのだ。サンチョ・パンサ(井勝)は、かなりのしゃがれ声なのに、この男のお喋りは頭のてっぺんからキーキー飛び出してくるようだ。つまり、みんながワイワイ、喉をからして、自分の思いを盛んに訴えていたのである。むろん、いうまでもなく、バレエの「ドン・キホーテ」の舞台である。ほんとうにことばが飛び交っていたわけではまったくない。だが、一言一句、彼らのお喋りをはっきりと聞いたのだ。知らず知らず、まるで演劇のせりふを追うように人物それぞれの力に満ちた話しっぷりを聞いていた。ダンスがなんと、いつしかダイナミックな言語空間になっていた。演出にロシアからニコライ・フョードロフを招いての貞松・浜田バレエ団の公演である。にぎやかで、ダイナミックで、お喋りに満ちて、観客もいつのまにかバルセロナの広場そしてセビリヤの居酒屋の喧騒に取り込まれてしまっていた、そんなお祭りのような公演だった。
SZ1s(2009年発売:350,000円)K01(2010年発売:1,400,000円)K03(2010年発売:800,000円)P02+D02(2011年発売:1,400,000円+1,400,000円)K05(2012年発売:550,000円)K07(2012年発売:390,000円)エソテリックの第3世代のSACDプレーヤーは、ラインナップ的に原点回帰したような印象です。この中では、K03をちょこっと聴かせてもらっただけで、それも音質がどうのといえるほど聴いたわけではないので、試聴メモもありません。そもそも、私はエソテリック製品をアキュフェーズやデノンなどよりも格下に見ていたので、新製品が出てもすぐに聴きに行くようなスタンスではなかったです。エソテリックはCD時代から音数が多かったですが、「音を引く妙」というのを求めたく思ってます。昔のデンオン、ラックスマン、サンスイ、ソニーなどは、高額機であっても音を引くことでバランスをまとめ、音が引かれた感じを与えない上手い音作りができていたように思います。ジャンルは違いますが、カメラのキヤノンのセンサーも、もっと情報量を多くできるのをあえて引いて、絵作りを整えていますが、これは撮像のセンサーというものを知り尽くしているからこそできることと思いますし、私はとても共感します。キヤノンのセンサーのことを、性能が劣るという人もいますが、絶対的な性能の高さを落として得るもの、という面も加味して判断したいものです。こういうことが、エソテリックの第1世代と第2世代の製品には欠けていたと思います。Kシリーズになってからのエソテリックの音が、私にどういう印象を持たせてくれるでしょうか?音質ではない面で注目はSZ1sでしょうか。これはSZ1のマイナーチェンジ製品ですが、VOSPメカとDAC、筐体構造はそのままで、アナログXLRやiLINKを排しただけで、550,000円だった価格が350,000円になりました。えっ、そんなに下がったの?!と驚いた人も多かったでしょう。実質的な定価大幅値下げという珍しい形の発売でした。
体の末端と中枢を結ぶ神経は長い一本の糸のように見えるけれど、もちろん見かけほど単純なものではない。じつは微小な神経細胞がずらっと連なって出来ている。しかも神経細胞と神経細胞の間にはごくわずかだがシナプスと呼ばれる隙間があって、だからその連なりも正しくいうと連続しているわけではない。末端からの信号はおびただしい数の隙間を跳び越え、跳び越え、中枢へ伝播する。とりわけ想像力を刺激するのは、この隙間がたとえ一万分の二ミリメートル程度の微細な切れ目であったとしても、生命に欠かせない重要な信号が刹那、無の空間を飛越していくことである。この無の空間も突き詰めれば宇宙にまで開かれているほとんど無限大の空間の一部である。その瞬間、生命は底なしの宇宙へと投げ出され、宇宙とじかに触れ合って、むしろ宇宙と一体になるのである。宇宙の深淵と共振する。名倉誠人のマリンバとウィルヘルミーナ・スミスのチェロが演奏するペトロス・オヴセピアンの特異な新曲「そして、柱の影…(第四部)マリンバとチェロのための」を聴きながら、そこに裂け目のように現れる音の隙間(沈黙)の鋭さと深さに驚き、そうして驚きとともに連想したのは、神経線維のその神秘なシナプスのことだった。曲のまっただなかに登場する沈黙の衝撃力。まさしく「そして、柱の影…」は沈黙のために作られた音楽だ。鍵盤と弦の響きがここではなによりも威厳に満ちた無の瞬間を切り立たせるために高揚する。わたしたちは奏者とともにその鋭利な裂け目を高だかと飛び越えながら、宇宙の深淵にめまいする。 明晰なパッセージは、むしろ数学的といえるだろう。この作曲家のスコアは堆積層の厚い大地のようにおそらく何層もの感情を下に隠して書かれているが、その表層(最上部)に設計されるアンサンブルの仕上げの地図は、幾何学的な明快さと端正さなのである。ユークリッドの図形ではどの頂点も厳格な座標に正確に書き写せる確かな位置を持つのだが、その曇りのない図形に似て、オヴセピアンの繰り出す音響には曖昧な影がひとつもない。連立方程式の美しい解のように、音楽の進行が作曲家の理性によって完璧にコントロールされている。ひとまずはこんなふうに受け止められるが、これは作曲家の意図とはぜんぜん別なことかもしれない、と聴衆を懐疑に追い詰めるような、そんな冗長な感傷的波動は針の先ほどもないのである。耳をたちどころに然るべき場所に導き出す。音が澄明に切り立ってくるということだ。自立しているといってもいい。それを名倉のマリンバとスミスのチェロがこれもまた理性的構成にふさわしく激情を抑制した明快さと端正さで奏していく。
きちんと明記していましせんでしたが、ここで取り上げているリマスタリングはアナログ録音をデジタル化するためのものに限定しています。デジタル録音のハイビットハイサンプリング化リマスタリングは除外していますのでご了承ください。
バレエはひとつの記号である。 美しい記号である。 とりわけ自由への記号である。 バレエはひとつの塔である。 美しい塔である。 とりわけ飛翔への塔である。 床屋の若者バジルを踊ったアンドリュー・エルフィンストン(Andrew Elphinston)は、その夜、自由への記号となった。 飛翔への塔となった。 貞松・浜田バレエ団が尼崎のアルカイックホールで上演した「ドン・キホーテ」でのことである。(2010年9月23日) エルフィンストンはオーストラリア生まれのダンサーである。 ニュージーランドで踊ったのち2003年に神戸の貞松・浜田バレエ団へ移ってきた。 赤道を越えてきたのは恋のためだったようである。 ロイヤル・ニュージーランド・バレエでプリンシパルを務めていた瀬島五月が貞松・浜田バレエ団へ帰るのを追いかけてとうとう神戸まで来たらしい。 生き生きとした風貌はどこかサン=テグジュペリの星の王子様(プチ・プランス)を思わせる。 立派な体躯をかんがえればむしろプチ・プランス(小さな王子様)のお兄さんというべきか? 誠実そうなフィーリングは兄弟に共通する。 記号はまず確かな場所を指し示す。 アンドリューはバジルの場所をきわめて明快に提示した。 第一幕。バルセロナの広場にて。 陽気さに満ちた踊りは、心が絶え間なく明るい海を泳いでいることを示している。 憂鬱な深海魚とは無縁である。 色男ぶりをちょっとばかり鼻にかけた罪のない矜持。 それは健全な現実感覚のあかしである。 世俗のよろこびを謳歌している若者だということだ。 この、ここに、いま生きているという信号。 光の記号…。 そういう明るい記号であることがこの作品でなぜそんなに重要か。 いうまでもなく対極である闇の記号が目の前に現われるからである。 ドン・キホーテ(岩本正治)。 迷妄のなかを旅する騎士。 ここではなく、どこか彼の地を、どこへともなく夢遊しているという信号。 だが実は深い迷妄を歩む者ほど深い夢をみるのである。 夢想のきわみのドルシネア姫、それは最も濃い闇の結晶にほかならない。 そして観客は見た、闇の顔に出遭った刹那の、光の顔に浮かんだ絶妙の戸惑いを。 それはこう語ってはいなかったか。 かれはだれ? つまり、だれがかれ? それは同時にこう自問している顔だったのではなかったか。 おれはだれ? つまり、だれがおれ? 短いが分厚い表現。 エルフィンストンはその一瞬に四重の表現を成し遂げていたわけだ。 むろんそれでもまだそれはこれから始まる長い物語のほんの門口なのである。 重要なのは、それを起点にひとつの飛翔とひとつの転落が観客の前にくっきりと現われたことである。 ひとつは、世俗者バジルのいっそうの光への飛翔。 愛への飛翔。 自由への飛翔である。 もうひとつは、夢想者キホーテのいっそうの闇への転落。 情念への転落。 囚われへの転落だ。 ひとりの老人とひとりの若者の行きずりの邂逅が、闇と光が交錯する稀有な叙事詩へと高まっていくのである。 刻々の変転。 愛と自由への刻々の変転。 エルフィンストンはそれを的確に踊ることになるだろう。 わたしたち観客の想像力を刻々と掻き立てていくことになるだろう。 そう、彼のダンスは刻々の変転だ。 決して滞ることがない。 そして、もうひとつの記号、塔。 これはなにも観念から生まれるものの比喩ではない。 広場の真ん中でバジルのエルフィンストンがキトリの廣岡奈美を頭上で反転させながらすばやく天空へ向かって掲げたときの、その正真正銘、物理的な高さのことだ。 塔、すなわち宇宙へまで投げ上げるような大きなリフト。 危険なばかりの、…しかし決して危険を感じさせない、完璧なバランスの。 強く語るべきは、そのしゅんかん天空へ飛んだのは、恋人のキトリひとりだけではなかったということだ。 その瞬間わたしたち観客が体におぼえた浮遊感。 あのときわたしたちの体の奥で何かがうごめきはしなかったか。 そしてそれは胸骨に沿って体を上へ抜けていき、天空へ翔け昇りはしなかったか。 舞台と客席の間に生まれた深い空間的共感。 わたしたちもそのときいっしょに飛んだのだ。 塔になること。 それは重力にあらがって宇宙へ飛び出すことである。 エルフィンストンはみずからが頑丈な土台になり、廣岡奈美を頂にして、つかのまであれ、みごとに美しい塔を築いた。 廣岡奈美を、そして観客すべてを、宇宙へと持ち上げた。 無重力へ。 自由へ。 シャガールがあの幻想の絵画でしたことを、彼はダンスでしたのである。 空を飛ぶベラ。 空を飛ぶ奈美。 空を飛ぶわたしたち。 解放。 さて、ふたたび光と闇の遭遇の局面に立ち返ろう。 キホーテはひたすらに自分の闇へ転落する。 迷妄のなかへ落ちていく。 町のチャキチャキ娘キトリの前に大仰にひざまずいて、「ドルシネア姫よ」と騎士の礼を尽くすのだ。 滑稽な錯誤。 だが神はときどき間違ったふりをしながら本意を通す。 夢遊者の錯誤に満ちた献身が結果としてキトリとバジルを結ばせることになる。 バジルの狂言自殺。 とりすがるドルシネア姫(キトリ)の悲嘆にほだされ、騎士はキトリの父親を説き伏せてしまうのだ。 闇の記号が、その闇ゆえに、かえって光の記号の希望を全うさせることになる。 そして、大詰め第三幕。公爵の城の前庭にて。 晴れてふたりの恋人が白い婚礼の衣装で現われる。 情熱的な赤と青の衣装で踊った広場のダンスとは対照的だ。 原色から白への上昇。 そしてふたたび天空へ飛ぶような高いリフト。 すなわち、再度の塔。 だが今度の塔はあの広場での塔とは微妙に違う。 世俗の時間の真っただ中に立った塔と結婚の聖なる時間に立った塔。 物質の塔が精神の塔へと変貌する。 より高い飛翔へ…。 その差異を巧みに表出したエルフィンストンの秀抜な技量。 さあ、その感性とその身体に乾杯しよう。 さて、言いたいことの本筋はひとまずこれで終わりだが、キホーテの闇の旅にもう少し触れておくのも無意味ではないだろう。 第二幕第三場の、とってつけたようだがしかし無くてはならないエピソード「ドン・キホーテの夢」。 ドルシネア姫(月)を天上へ追おうとしたのに、なんという逆説、悪魔(風車)に足をすくわれて瀕死、すなわち地獄の門口へ飛ばされる。 だが死へあと一歩という危険な夢のまっただなかで、またしても逆説、彼はついにうるわしの目的地に到達する。 姫との至福の邂逅を果たすのだ。 永遠の夢のなかで結ばれたエンデュミオンとセレナのように。 闇の極地での光との合一。 結語。 闇と光の邂逅がキトリとバジルを結ばせた。 闇と光の統合がドルシネアとキホーテを出会わせる。 二重に貫徹されるテーマ。 「ドン・キホーテ」の深さ。 豊かな記号に満ちたバレエ。
[ロンドン 15日 ロイター] -今年の欧米の年末商戦は、玩具の販売不振が予想されている。懐具合の寂しい消費者が食品や生活必需品の購入を優先し、玩具を後回しにしているためで、サンタクロースの運ぶクリスマスプレゼントは少なめになるかもしれない。
最初に取り上げるのはEMIクラシックです。EMIクラシックでは、CD登場時に既存の日本販売用アナログマスターをイコライジングしたCD用マスターを作って以来、新たなマスターを作ることなく10年以上が過ぎていました。本家EMIがリマスターを行う情報は流れても実現せず、日本販売元の東芝は、ライバル各社がハイビットデジタルでのリマスタリング盤を準備しリリースし、販売実績を積んでいる様を眺めるだけの現状に我慢できず、日本独自でリマスターを断行しました。東芝が開発したリマスタリング技術はHS2088と名付けられました。HSはハイ・サンプリングの略称、2088は20bit/88.2kHz規格でのハイ・サンプリングという意味です。アナログマスターテープを使ってCD用デジタルマスターを作る場合、従来はCDと同じ16bit/44.1kHzでサンプリングしていましたが、これを20bit/88.2kHzでサンプリングしています。アナログのマスターテープには22.1kHz以上の高域の音情報も収録されているので、このサンプリングで44.1kHzまでの高域を含んだマスターが作れます。このハイ・サンプリングマスターをCD規格の16bit/44.1kHzに戻して、CD用のリマスタリングデータを作成し製品化したのがHS2088シリーズというわけです。こうしたリマスターで当時議論を呼んだのは、16bit/44.1kHzをハイ・サンプリングしたところで最終的に元の16bit/44.1kHzに戻してしまえば、結局同じなのでは?ということです。東芝に限りませんが、ハイ・サンプリングでリマスターしているレコード会社は、ハイ・サンプリングすることで16bit/44.1kHzの範囲の音質も向上する、と主張していました。確かに音質が向上したハイ・サンプリングマスターの16bit/44.1kHzの部分を切り取るような技術なのですから、16bit/44.1kHzに戻しても音質まで元に戻るわけではありません。私見ですが、これは16bit/44.1kHzに「戻す」という言い方が悪かったのであって、16bit/44.1kHzに「切り取る」という言い方であれば世論の受け入れられ方も違ったかもしれません。この切り取りも、fs-bitコンバーターという音楽情報の少ない部分を多くカットし、情報の多い部分はなるべく残すという、見た目凸凹でもサンプリングした部分部分は16bitになるような小細工技術もあるのですが、これはソニーも同じ考え方を採用していましたので、利点もあったのでしょう。とにかく東芝は本国に先駆けてデジタルリマスタリングを行い、意気揚々と日本での発売に踏み切りました。1995年のことです。すでにドイツ・グラモフォンはオリジナルスを、DECCAもPHILIPSもDENONもソニーもビクターもハイ・サンプリングによるリマスター盤をリリースしていましたので、ようやく集団末尾に追いついた感です。東芝はHS2088を本国EMIのリマスターとして採用を働きかけましたが、実を結びませんでした。本国でART(ABBEY ROAD TECNOLOGY)リマスタリング技術の開発を進めていたのも理由ではありますが、それよりもHS2088の日本での評判がはかばかしくなかったのです。悪評となった最大の理由は、使用したマスターが、従来の日本盤CD用にデジタルマスタリングされたものだったことです。従来の日本盤CD用マスターは、本国のアナログマスターのアナログコピーを繰り返した劣化した曽孫マスターであり、それをデジタル化しても劣化した状態のデジタルマスターが出来上がるだけです。劣化した音のデジタルマスターをいくらハイ・サンプリングしようが劣化が改善されるわけでなく、音楽の情報量とともに劣化により付帯したノイズの情報量も増え、それを隠すためのイコライジングを必要悪として施さざるを得なくなったのでした。このため「音の洪水」「音が割れる」とった評が目立ってしまったのです。東芝が本国の力を借りずに独自で立てた企画のため、本国のより音質劣化の少ないマスターテープを使用できなかった、といわけです。もう一点、これは音質に大きく影響しているとは思いませんが、東芝の持っていたCD用マスターは、高域限界が22.1kHzではなく、20kHzのところでハイカットされたものでした。ですのでHS2088でハイ・サンプリングしたマスターの高域端は40kHzとなります。可聴帯域にどう影響したかは定かでありません。東芝が他社で採用されていた96kHzでなく88.2kHzを採用したのは、CDのサンプリングが44.1kHzであることから、演算が必要な96kHzではなく、ちょうど整数倍の88.2kHzが音質的に有利という判断だったと伝えられています。これは一理あるかな?という感じがいたします。HS2088によるグランドマスターシリーズが発売された時期は、私は高校生で、おばあちゃんに援助してもらいながらせっせとクラシックCDを買い貯めはじめた頃です。グランドマスターシリーズも20枚以上買ってしまいました。私個人の音質評としては、情報量が多いのですが、テープヒスなどのノイズも多くSNが悪いです。音の洪水と言われた低域は、従来盤とは一長一短なので置いておきますが、オケの強奏で音が割れる寸前というのはありますし、高域がけっこうカサカサしています。カール・シューリヒトのブルックナーなどの大事な演奏は、もっと良いリマスタリングで聴きたいものだという思いは確かに湧いてきます。
次に取り上げるのはDECCAのマスタリングです。DECCAの代表的なマスタリングは2種あります。ひとつは「THE CLASSIC SOUND」で、これは日本では「栄光のロンドン・サウンド」という企画で発売されました。イギリスのDECCA本社所有のオリジナルマスターテープからリマスタリングし、ディスクのプレスを本拠地ハノファーで行なったことがセールスポイントです。ただ、このリマスタリングのサンプリング周波数とビット深度の規格が不明で、ハイ・サンプリングなのかどうかわかりません。しかしながら音質評は概ね高く、LPと同傾向の音をCDで味わえる、とあたたかく迎えられました。
ソニーはSBM技術を利用しつつ、「DSDマスタリング」という1bitでのビットストリーム方式でのマスタリングを始めます。SACD開発のオピニオンリーダーであったソニーは、SACDの録音方式であるビットストリームをマスタリングにも流用したわけです。日本向けのアナログマスターテープと、デジタル録音でのデジタルマスターデータ(ソニーの初期のデジタル録音はDATでの収録でしたのでデジタルマスターテープになります)をそのままDSDに変換し、SBM技術で雑音の低減と再量子化でのエラーを排除するという、理論的には難しくないものです。このマスタリングは音を滑らかにする効果が高く、聴きやすい音調に変わったのですが、サンプリング周波数が2.8MHzと非常に高いために、ハイサンプリング特有の高域のエネルギーが高くなる傾向を改善させることができませんでした。ハイサンプリングマスタリングの難しさを如実に露呈してしまった企画であったと思います。ソニーはこの後、CDなどパッケージメディアに見切りを付け、ハイレゾルーション音源の配信に舵を切るのですが、ハイレゾ音源にも依然としてマスタリングの問題は残っており、ソニーのmoraでの音源がどのようなマスターからハイレゾ化されたかは購入時の重要な判断材料とされています。
3つ目のレーベルはPHILIPSです。PHILIPSは日本での代理店がかなり変遷したのですが、初めてのハイ・サンプリングでのリマスタリングはマーキュリー・ミュージックエンターテイメントが発売元だった時代の1995年、「24bit Format」と銘打たれたシリーズでした。資料がほとんどなく24bitでリマスタリングしたこと以外何も分かりません。日本では紙ジャケット仕様、オリジナルジャケット写真を用いて発売されていたことは私も覚えています。このシリーズは「PHILIPS BEST 50」などで再発売されており、私が持っているオイストラフ&オボーリンのベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ集などはこのリマスターです。個人的な感想としては、24bitの恩恵は良く分かりませんでした。
LUMINではプレイリスト登録の際に不具合が生じるパターンがあります。プレイリストに登録するのに、ファイル1つ(つまり1曲あるいは1トラックのみ)を登録する場合と、1フォルダ(つまりアルバム1枚分あるいはフォルダ内全ファイルをまとめて)を登録する場合とがあります。私も含めて多くの人は後者の登録を使うことが圧倒的に多いと思います。1フォルダを登録するときは、ライブラリー画面で登録したいフォルダ(アルバム)を長押しすると、登録方法を選ぶウインドウが現れます。画像5がそれで、?今登録しているものの前に登録即再生開始、?今聴いているトラックのすぐ後に登録、?今登録しているものに続けて登録、?今登録しているもの(今聴いているものも含みます)を削除して新規登録し即再生開始、の4つの方法がこのウインドウで選べます。【悪い点その2】LUMINでは、?か?を選択すると、再生は開始されるのですが、表示に反映されません。画像6は再生が始まってすぐのプレイリスト画面ですが、再生がされているにもかかわらずプレイリストには再生を示すマークがトラックに付いていません。そしてコントロール部も、何も曲が登録されていない状態と同じで楽曲情報が空白、シーク表示も時間表示もされません。この状態で楽曲再生画面にスワイプさせて移動したのが画像7ですが、ご覧の通り楽曲に関係するタグ表示も、シークや時間の表示もありません(下部にコーデックの種類とサンプリング周波数とビット深度そしてビットレートは出ています)。先頭のファイル(1曲目)の再生が終わるまで無表示は続きます。2番目のファイル(2曲目)の再生に移ると、すべての表示は正常に戻ります。しかし1曲目が無表示というのはかなりガッカリです。この不具合はUSB DACとしてMAP-S1を使用しているからという可能性もありますが、それは他の機器でも起こり得るということでもありますし、機器に関わらず生じる不具合なのかもしれません。現状、iPadでのiOS用LUMINと、スマホでのAndroid用LUMINのどちらでも、この不具合は起こっています。続きます。
この異様な画家は前もって頭の中で準備した設計図に従ってこの作品をこのように描いたのだろうか。それとも溢れてくるイメージに身を任せて行方も定めず描き加えていくうちに結果としてこういう作品になったのだろうか。むろん想像するこちらとしては、奔放な夢想に没頭している少年みたいに画家が霊感の赴くまま海図のない大洋に乗り出してそうしてこんな気ままな航海日誌を書き上げたと、そのように信じる方が楽しいし、なにかしら晴れやかな気持ちもする。神の手のような正確なデッサンや隙のない構成が絵画に信用と気品を加えるのは確かだが、そうしてコントロールされた謂うところの真面目で完璧な作品にはどうしてもある陰鬱な雰囲気がつきまとう。自信たっぷりに自分の価値を押し付けてくることもないではないし、ときにはいささか事大主義に過ぎるようで、ときには中央集権的である。そういうのはいまどきどうも無粋な感じがするのである。その点、武内ヒロクニのこの奔放かつ夢想的な作品は、いやあ、完璧でそのうえ個性的じゃあないですか、などと矛盾に満ちた鈍重なおべっかを遣いながら自己嫌悪に陥っていく心配なんかまったくないし、原色が飛び交う絵の本性からして心が暗鬱になってしまう危険などもさらさらない。へええ、なんとまあ、これはまあ、と二言三言驚きの叫びを発しておいて(これは異端の芸術家への最小限の礼儀である)、そのあとは見るものそれぞれがおのおのの流儀に沿って勝手な夢想へ飛び立っていけばいいのである。されば、あどけないといっていいほどあっけなく少年性夢遊シンドロームに感染していく客人たちの横顔を盗み見しながら、画家自身もニンマリするというわけだ。武内ヒロクニの作品は決して美を閉じ込める厳正な座敷牢ではないのである。全方位へ開かれた、むしろ荒々しくさえある、無限への出口である。
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