ユニチカ撤退で2万社影響か 調査
大阪に本社がある「ユニチカ」は、1889年に「尼崎紡績」として当時、綿花の栽培が盛んだった兵庫県で創業しました。その後、ほかの紡績会社と合併し「大日本紡績」となり、「鐘淵紡績」、「東洋紡績」と並ぶ日本三大紡績の一角として成長。繊維産業を中心とした大阪は、「東洋のマンチェスター」と呼ばれました。戦前から戦後にかけ基幹産業の1つとして、日本の近代化と高度経済成長を支える中、会社が力をいれたのが、バレーボールです。
大手繊維メーカーの「ユニチカ」は、赤字が続いていた祖業の繊維事業から、撤退することを正式に発表しました。これに伴って主力銀行などがおよそ430億円の債権放棄に応じる見通しです。
こうした状況を受け、ユニチカは構造改革を繰り返してきた。
帝国データバンクは6日、ユニチカの繊維事業撤退で影響を受ける可能性のある企業が2万社近くに上るとの調査結果を発表した。直接取引しているのは664社、2次的な取引先は1万8506社。ユニチカは繊維事業を2025年8月までに売却する方針だが、不調に終わった場合は全国に影響が広がる恐れがある。
ユニチカは1889年に創業。鐘淵紡績(カネボウ、現クラシエ)、東洋紡績(現東洋紡)と並ぶ「三大紡績」の一角として、日本を世界最大の紡績国に押し上げた。好調な業績の下、1964年東京五輪では、社有チーム主体の女子バレーボールが金メダルに輝き、「東洋の魔女」と称された。女優の風吹ジュンさんらを輩出した「マスコットガール」も話題となった。
大阪市内で会見した上埜社長は、「ユニチカが存続するための最後のチャンスで、生き残りをかけて再生計画を遂行する」と述べた。
1964年の東京オリンピックのバレーボール女子では、前身の「ニチボー」が主体となって結成されたチームが金メダルを獲得。「東洋の魔女」と呼ばれ、日本中を沸かせました。1969年には、合成繊維メーカーと合併し「ユニチカ」が誕生。翌年からは、水着のキャンペーンモデルの起用を始め、風吹ジュンさんや内田有紀さん、米倉涼子さんらが務めてきました。しかし、1990年代の後半に入ると、低価格の中国メーカーなどとの競争が激化し、主力だった衣料品や生活雑貨向けの繊維事業の業績は落ち込んでいきます。2014年には、原材料費の高騰などによる業績の悪化で債務超過に陥る見通しとなったとして取引先の銀行などに375億円の金融支援を要請しました。会社では、収益性の高い食品包装や半導体関連の材料などに使われるフィルム事業の強化をはかるとともに、繊維事業についても環境に配慮したり、暑さや寒さに強い高機能な素材の開発を進めたりしていました。しかし、繊維事業は、赤字が続いていたということで、このところの円安も重なり、来年3月までの1年間の業績は103億円の最終赤字と、2年連続の赤字になる見通しを示していました。
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