NHKの収入減深刻 厳しい台所事情

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NHKの収入減深刻 厳しい台所事情
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NHKの収入減深刻 厳しい台所事情

イギリスの映画監督ケン・ローチ氏と日本の映画監督是枝裕和氏が、NHKの番組で対談後に加筆し、まとめた本である。ローチ監督は社会主義思想を持ち、常に労働者の立場で映画を製作し、彼の考え方も前面に出す監督である。私自身は2016年製作『わたしは、ダニエル・ブレイク』、2019年製作『家族を想うとき』の2作品しか見たことがないが、忘れられない映画であった。『わたしは、ダニエル・ブレイク』ではイギリスの福祉制度の矛盾をつき、『家族を想うとき』では、不安定な職業に従事する家族が崩壊していく有様が描かれていた。皮肉っぽいシーンが多かったことを覚えている。 一方是枝氏は、ローチ氏を尊敬しつつも、自身のさまざまな思いを映画に投入することには慎重な姿勢である。映画の中で何か解決策を提示したりすることについても、危険を感じると語っている。映画を見ながら、悶々と悩み、それぞれの生活に戻ってから、答えを見つけてほしいというのが是枝氏の考えである。両者には若干違いがあるが、技術的な部分や、監督業についての考え方は共通部分が多いようである。文中にて映画製作の手法が語られている。例えば、観察者の視点から見た映像にするためカメラを静止すること、子役には台本を渡さないこと、カメラを設置する場所へのこだわり、どのような気持ちでカメラを回すべきか等。二人の手法はドキュメンタリー的と言われ、フィクションを感じさせないような撮影にこだわっている。両監督とも細部まで神経を尖らせ、演技者の魅力を引き出し、私たちを映画の世界に運んでくれる。そのメッセージは、現在の社会で何が起きているか目を離さずしっかり見つめ判断する力を持て、ということだと思う。

昔話は、子どもたちをひきつける。そう感じている図書館員は多いだろう。 本書は、著者が東北の村の家々をめぐり、「幼い頃に聞いて憶えている昔話があったら、聞かせてくださいませんか」(p.10)とたずねて記したものの集成である。しかも単なる民話集にとどまらず、「民話を求める旅を続けて(中略)五十年」(p.358)という著者により、語り手との出会いの様子が、著者が聞かなければ埋もれてしまったかもしれない民話とともに描かれている。 東北の厳しい生活の中で語られる民話は、笑いあり涙あり切なさあり。そのむこうに、「ほんとうのこと」が見え隠れてしていることに気づかされていく。 そのエピソードとして、いじめをうけている男子中学生の話に注目したい。ある日、彼は教室に行くとすべての者が獣にみえると、カウンセラーに泣いて訴える。カウンセラーは、「オオカミのまつ毛」という民話を聞かせる。それはオオカミのまつ毛で人をかざしてみると、すべての者が獣にみえるという話である。彼は民話を聞くうちに心を落ち着かせていく。それはなぜだろうか。 彼は、教室で人が獣にみえるという事実に戸惑い、生きることに苦しんでいた。民話はその事実を真実として、つまり生きることは苦しく、悲しいものなのだと、彼に語りかけたのだ。だからこそ、その民話が、彼の「心がもとめるもの」として、どんなカウンセリングの言葉よりも心を癒し、支える力となっていったにちがいない。 民話に隠れている「ほんとうのこと」とは、「人の心がもとめるもの」ではないだろうか。 民話を聞くことの大切さを知ってほしい。おすすめの一冊である。

「世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代 仲良くやっていきましょう。 テロ、戦争を起こさないために- 大勢のイスラム教徒と共存するために-」 帯に書かれた言葉に著者の願いが表れている。 この本は、これまで関心を持ってこなかった人を意識して作られているのだろう。可愛らしい表紙と、語り口調の本文がそれをうかがわせる。 著者は、1990年代からヨーロッパのトルコ移民の研究をしてきており、第1章ではそれを元に西欧諸国とイスラムの衝突について述べている。各国それぞれに事情が異なるものの、移民たちは居場所を見つけられず再イスラム化が進行。一方で、ヨーロッパ諸国の側からは、同化しないイスラム教徒に対する差別・攻撃・排除が繰り返される。これについては「ヨーロッパの市民よ、これ以上衝突を起こすなかれ。」(p.52)と訴える。 遠く離れた日本では、イスラム教に対して西欧世界経由の“戒律が厳しい”というイメージやテロへの不安がある一方で、来日するイスラム教徒の増加を商機とみて「ハラール・ビジネス」の成長が目立つ。この状況に対して、著者は、一般の日本人が抱きがちな疑問に答えつつ、「ハラールかどうかを決められるのは神様だけ」(p.105)と苦言を呈する。 テロ、特に「イスラム国」については、「イスラム世界から生まれた“病”」(第7章)ととらえてイスラム世界の問題点について見解を示している。 「イスラム世界と西欧世界とが、水と油であることを前提として、しかし、そのうえで、暴力によって人の命をこれ以上奪うことを互いにやめる。そのために、どのような知恵が必要なのかを考えなければなりません。」(p.7) この考え方は、イスラムに限らず各地で起こる諸問題にも当てはまるのではないだろうか。

「七卿の都落ち」という言葉は幕末・明治維新に興味を抱く者なら誰しもが知っているであろう。1863年に起きた政変で京都を追われ、長州に逃れた尊王攘夷派の七人の公家たちのことである。しかし、この七卿の内の五卿(一人は死亡、一人は逃亡したため、残された、三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌の五卿)が更に筑前に追われ、太宰府天満宮に身柄を預けられたことまで知っている者は少ないのではあるまいか。 ところで、現在はお土産屋さんとなっている太宰府天満宮参道沿いの店々は、江戸時代は旅館街だったのである。そしてこの五卿を訪ねて、西郷隆盛、坂本龍馬、桂小五郎といった志士たちが寄り集い、倒幕のための緻密な戦略を練りに練ったのである。 昨年明治維新150年を記念し、太宰府天満宮が、その所蔵する五卿や志士たちの書簡・肖像画等を展示公開し、その図録を兼ねた解説書として本書を刊行した。そもそも何故太宰府天満宮が五卿の落ち行く先として選ばれたのか。そこには筑前黒田藩内部の微妙な勢力争いが影を落としている。幕府の厳しい監視の下、いかに天満宮宮司や地域の人々は五卿に便宜を図り、もてなしたか。そして勤皇の志士たちは、どのように交流を深めて倒幕に起ち上がったか。これらのことを、第一章 延寿王院と大鳥居信全、第二章 五卿遷座前の太宰府、第三章 長州藩をめぐる福岡藩と薩摩藩の動き、第四章 太宰府での五卿、第五章 大政奉還の構成の下、彼らの手になる書簡文を読み解きながら探ってゆく。 極めてローカル、郷土史的色彩が濃厚ではあるが、日本の歴史の一大転換点はどのように準備されていったのか、幕末史に興味のある人は、ぜひ一読願いたい「図録」である。

2000年度青少年読書感想文コンクール課題図書『ロビンソン・クルーソーを探して』(新潮社 1999)の著者、探検家・髙橋大輔氏の新著。ロビンソン・クルーソー(のモデルとなった人の足跡)を探したあとも、浦島太郎が向かった竜宮城を探す等、「物語を旅する」探検を続けている。2016年開始の今回の探検の目的は、「剱岳史上初登頂」と思われていた明治時代の測量隊よりも早く、おそらく平安の頃に剱岳に登頂し、山頂に錫杖頭と鉄剣を残した“剱岳ファーストクライマー”の正体を突き止めること。「いつ」「誰が」「何のために」というような「5W1H」を軸に古の登頂者の正体を探るため、複数の経路から剱岳に幾度も登頂する。朝一番に岳近くの山小屋を出発しても、下山にかかる時間を考えると、頂上にいられるのは一回の登頂につき一時間程度。登る前の下調べがとてつもなく重要になる。 髙橋氏は、崖を登り岩を降り、自宅のある秋田から東京、富山の剱岳やその周辺の町々はもちろん、剱岳付近の地名にまつわる姓を辿り奈良県にまで足を延ばす。「探検」の足は「過去」へ向かっても遠く延ばされる。万葉集、今昔物語集、各地の考古学研究機関の発行する各年代の研究誌等を縦横無尽に渉猟する。多種多様な資料やいろいろな人から聞く体験談が、探検家の目と耳と手を通してつなげられ、謎の解明の手立てとなっていく。 1967年に富山県で行われた全国高等学校登山大会で使用された地図が謎解きの大きな手掛かりとなるという展開は、図書館等で扱っているさまざまな資料の重要性を改めて認識させてくれる。 終盤の登頂にはNHK取材班が同行。2016年から2018年にかけて行われたこの探検の様子が、2020年の今もインターネット配信を通して視聴できる。いろいろな意味で「過去」から「現代」を味わうことのできる「探検記」である。

本書は、著者である梅田明日佳君が小学校3年生の時に宿題で出された「自学」を書き始め高校3年生の今も続けている27冊のノートが元になっている。新聞を読み気に入った記事を切り抜き、言葉を調べ関連する本を図書館で借りて読み、文章をノートに書く。この体験を書いた「ぼくのあしあと 総集編」は、中学3年生の時に北九州市が主催する「子どもノンフィクション文学賞」(中学生の部)2017年度大賞を受賞した。 作品を面白いと思った北九州在住の人が佐々木健一NHKプロデューサーに送付。「ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険」として13回放映された。番組は「令和元年度(第74回)文化庁芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞」などを受賞。放映が出版につながった。 4章に分かれた本書には、「自学ノート」と共に絵本から学芸書まで17年間の読書記録が掲載されている。幼稚園の頃から日曜の午後を図書館で過ごした梅田君は自発的に読書をする子どもではなかったと自分を振りかえり、こう続ける。「図書館で長い時間を過ごすうちに、知りたいことは(中略)なんでも本で読めると気づき、今も『こんな本がある』という驚きを繰り返しています」(p.133)この言葉を北九州市の図書館に45年間勤めた私は司書を目指す大学生たちに語りたい。 梅田君の17年間の読書記録と「自学ノート」は、子どもが図書館と本の役割を発見していく過程であり、みずみずしさに溢れ元気が伝わってくる。例えば読書時間ゼロの大学生を減らす解決策は児童書から一般書へのシフトを大人に助けてもらうことだと書いている。この大人の一員が司書。 「これも読んでみませんか」と声をかけられた体験が第3章に記されている。目に見えない司書や図書館の仕事が利用者の視点で表現され、明日も司書として頑張ろうと思える本である。

私は大学で経済学を学んだ少数派の司書だ。せっかくなら自分の強みである経済学の本からおすすめしたいと考え、浮かんだのが本書である。 本書はタイトルのとおり、ある集団が各個人の意見をまとめてある決定をするときに用いる「決め方」を、経済学の一分野である「社会的選択理論」の枠組みを中心に分析したものである。 社会的選択理論は、「決め方」を各個人の持つ情報(好みや希望)を集団の意思として集約するための制度として捉え、数理的に分析することに特徴がある。本書では選挙等で幅広く用いられる多数決を分析の中心に取り上げている。多数決の問題点は直感的には広く知られているが、多数決という制度が情報の伝達や集計にもたらす問題として捉えることで、三択以上の投票ではより望ましい性質を持つ代替案が存在すること、二者択一の投票では多数決の利用を正当化し得る状況があるが、その条件は厳しいことを明らかにしている。 本書を経済学の本としておすすめする理由は二つある。一つは、本書では経済学と聞いてよくイメージされるお金や景気の話がほとんどないからだ。つまり「経済学はお金もうけや景気の話をする学問」というよくある偏見を解き、経済学の奥深さを実感するのにうってつけの本なのである。もう一つは、「決め方」という制度を考える本書を通じて、読者が普段当たり前に受け入れがちなさまざまな制度を改めて考え、より良い生き方を実現するヒントになるのではないかと考えるからだ。 なお、著者による類書として『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波書店 2015)がある。本書は具体例や図表を多く用いて、この分野になじみがない読者にもやさしく読める構成である一方、前掲書は学説史等を通じ、民主的な意思決定のあり方を追究する観点をより強く打ち出した記述となっている。あわせておすすめしたい。

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