雑貨大手の巨大店舗が閉店 課題は
「概念を変える」ことで、日常的なモノに新しい価値を見出すことが、初期の文化屋雑貨店の取り組んだことであった。そうした中で、単に仕入れるのではなく、問屋や工場に頼んで、文化屋雑貨店の品揃えにふさわしい雑貨を発注し製造してもらうようになった。「欲しいものがなければつくればいい」と考えたのである(Hasegawa, 2014, p. 82)。その一例が、「残糸シリーズ」である。
閉店後は、長谷川は雑貨を作り続け、神田にある元鶴谷洋服店などに卸したり、イベントに参加したりしている。店から解き放たれて自由になった身のことをこのように語っている。
このケースが取り上げるのは、1974年から2015年まで東京の渋谷と原宿で営業した伝説的な雑貨店、文化屋雑貨店である。雑貨とは、どこまでから雑貨であり、どこからが雑貨ではないかという範囲設定が分からない不思議な製品カテゴリーであるが、現在では雑貨店が日本各地で見られるようになった。この日本独自の製品カテゴリーを創造したのが、文化屋雑貨店店主・長谷川義太郎である。長谷川は「雑貨」という概念を通じて、消費者のみならず、ファッション・デザイナーや雑誌編集者など内外のクリエイターに対して、現在に至るまで多大なる影響力を与えてきた。このケースでは、本人によるオーラル・ヒストリーに基づいて、長谷川が文化屋雑貨店を通じて実現した市場創造について見る。
やっぱりデザインの仕事をしてたせいでしょう。横文字、大嫌いだったから、デザインも横文字じゃないですか。全部、横文字じゃないですか。その当時の会社が、だから、松下電器がパナソニックになったり、全部、横文字に変えていくという時代だったから。(中略)世の中が全部横文字になるんだったら、1文字でも漢字があると目立つんですよ。だから『an.an』の最後に、今回の出展してくれたお店の名前がずらーって並ぶそん中全部横文字なのに、「文化屋雑貨店」って1個あると、目立つ目立つ(2017年10月1日インタビュー)。
ここでも長谷川はスミスからロイヤリティを取るといったことをしなった。スミスは、アメリカの見本市だけでなく、ロンドン、パリ、イタリアでも文化屋雑貨店デザインの靴下を数多く売ったいう。それ以来、スミスは来日のたびに、文化屋雑貨店を訪れ、大量に買い付けをした。
豊かな文化資本を背景にしてデッサンを通じて鍛えられた自身の審美眼を、長谷川は文化屋雑貨店という唯一無二の小売店の40年間の経営を通じて彫琢させた。その不可逆的な帰結は、雑貨という定義不可能なカテゴリーの創造であり、日本語における「雑貨」ということばの意味変容であった。このことばを通じた市場創造は、あまりにも消費社会的な出来事であった。
この会社員時代に、後の文化屋雑貨店につながる試みを長谷川はしていた。金太郎の腹掛けとか、蔦谷喜一のぬり絵(後述)を事務所に勝手に吊して展覧会をしていたのである。これを見た菊池らが、買ってくれた。こうした経験を経て、会社員を辞めて独立することを考えるようになった。辞めることへの不安はなかった(Hasegawa, 2014, p. 51)。
閉店が決まると、長年のファンが来店して店がなくなることを惜しんだが、長谷川は湿っぽい雰囲気にすることなく、2015年1月15日の閉店日を迎えたという。元スタッフの内田によると、閉店間際に、突然、長谷川が「タダで商品を持っていっていい」と言い出したため、閉店を惜しみ悲しむ客が突如、興奮して多くの商品をもらおうと殺到し、すべての商品がはけたという。最後まで長谷川らしい、あるいは病院バザールが原点である文化屋雑貨店らしい振る舞いであった。
私が勤めていたビギのヒルサイドテラスの空部屋を無償で君に提供し、給料日にビギ社員向けバザーを実施したところ、ワゴンのバンに目いっぱい積んできた商品は稲葉賀惠先生はじめ皆さんのおかげでほぼ完売の好結果、このことが後日原宿に文化屋雑貨店を始める自信につながったと君から聞いてうれしい限りです(Hasegawa, 2014, pp. 163)。
「文化屋」と「雑貨店」という2つの屋号が並んでいるのはおかしいと思ったのだが、それがかえって「訳が分からなくていい」と感じたそうである。しかし当時は「雑貨」と言えば、荒物や金物を意味することばだったので、当初は釘やハンコやバケツを買いに来る客がいたという。たばこ屋の看板を店先に置いていたので、しまいにはたばこを買いに来る客もいたという。
このケースでは、1974年から2015年まで東京の渋谷と原宿で営業した伝説的な雑貨店、文化屋雑貨店に注目する。雑貨とは、どこまでから雑貨であり、どこからが雑貨ではないかという範囲設定が分からない不思議な製品カテゴリーであるが、現在では雑貨店が日本各地で見られるようになった。この日本独自の製品カテゴリーを創造したのが、文化屋雑貨店店主・長谷川義太郎である。長谷川は「雑貨」という概念を通じて、消費者のみならず、ファッション・デザイナーや雑誌編集者など内外のクリエイターに対して、現在に至るまで多大なる影響力を与えてきた。このケースでは、本人によるオーラル・ヒストリーに基づいて、長谷川が文化屋雑貨店を通じて実現した市場創造について見る。
売りたいものを売る、さらには売れても追加発注をしない、というポリシーが示すように、長谷川が目指していたのは、売上や利益の拡大ではなく、デザインやファッションなどの世界において、彼独自の審美眼の影響力を発揮することだった。実際、文化屋雑貨店は、業界人のみならず、山口小夜子、山本寛斎、ヴィヴィアン・ウェストウッド、アンディー・ウォルホール、ポール・スミス(後述)など、世界で活躍するモデルやデザイナーらも訪れる影響力のある店になっていた。マーケティングの定石からすれば、この影響力を最大限に利用すべく、多店舗化をしてビジネスを拡大することを目指すであろう。しかし長谷川は自分の店を多店舗化するつもりがまったくなく、閉店に至るまで1軒の店だけを営業し続けた。
こうしたビジネスの仕方を長谷川は「空間移動」と呼んでいる。空間移動とは、「時代遅れとされている浦和とかで売れ残っているものを、渋谷の文化屋に持ってくると、別の価値が出たり新しいジャンルができちゃうこと」である(Hasegawa, 2014, p. 81)。この空間移動を徹底的に行ったことこそが、文化屋雑貨店が他の追随を許さないユニークさであった。
国内での仕入れやものづくりが文化屋雑貨店の初期のビジネスの中心をなしていたが、香港の雑貨に邂逅する機会が、創業して2年後に訪れた。叔父の吉田善哉がアメリカ・ケンタッキー州で経営していた牧場に行き、1ヶ月ほど滞在したのである。田舎のいろいろな店を回って、ガラスびんや仕事用の手袋や洗濯板などを大きなブリキのトランクで15個ほど買ってきた(Hasegawa, 1983, p. 140)。それらは、従兄弟の吉田照哉がサラブレッドを輸入するためにチャーターした貨物機で運ばれた(Hasegawa, 2014, p. 163)。
このように何かを描くということの前に、何を見出し選び出すのか、ということの意義を長谷川は強く意識するようになる。こうした思考の構えというべきものが、後に自分が売りたい雑貨を選び出し、あるいは創る際に発揮されたのである。


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