列車通過も踏切閉じず 岩手で2件

FXブログ
列車通過も踏切閉じず 岩手で2件
[紹介元] Yahoo!ニュース・トピックス – 経済 列車通過も踏切閉じず 岩手で2件

列車通過も踏切閉じず 岩手で2件

和歌山電鐵を支援する「貴志川線の未来を"つくる"会」(木村幹生代表、会員1924人)から2020年7月発行の会報(第16号)が送られてきた。発行は年一回。そこには「2019年度利用者は200万人割れ。15年前からの存続活動で初めてのこと。コロナ禍で頼みの綱の観光客も激減。あとは"公有民営化しかない」と訴える声が載っていた。和歌山電鐵貴志川線(和歌山~貴志間14.3km)は、大手の南海電鉄が経営難を理由に手を引くこととなったが地元関係者の熱意により存続が決定し、新会社を設立のうえ2006年4月より事業継承をした。 この時、再建を託されたのは岡山県の両備グループ。同社の小嶋光信社長は、全国各地で経営難に陥っている地域公共交通(電車、バス、タクシー)に知恵を貸しながら、再建の陣頭に立っている人物。和歌山電鐵では、貴志駅長に猫のタマ(現在は二代目のニタマ)を任命して話題を集めて集客に成功し、電車デザインを水戸岡鋭治さんに依頼して"いちご電車"などを走らせ、鉄道ファンに限らず沿線地域の人たちにも地域鉄道の存在感を再認識させた。また訪日外国人観光客、特に中国や東南アジア諸国からの誘客に成功し、再建への道を着々と築いてきた。それが2019年度利用者数は198万8000人、前期比で9万8000人減、4.7%減まで落ち込んでしまったのだ。主原因はコロナ禍だが、それに平素からの通勤通学客の利用縮小も重なっている。 会報には小嶋社長も寄稿、「大赤字で手が打てなくなる前に公有民営化して、地域と行政が一体になった攻めの展開をしたい」と決意を明記する。さらに具体案として観光客の再掘り起し策などのほか、和歌山駅から和歌山市駅への延伸、人気の"タマ電車"等をJR線で新大阪駅へ乗り入れできる観光列車に育てるなど10項目を提案、再び廃線の危機を迎えないために沿線住民との一層の連携を呼びかけている。 因みに、公有民営化、いわゆる地方鉄道における上下分離の実例は、四日市あすなろう鉄道(三重県)、福井鉄道(福井県)、信楽高原鐵道(滋賀県)など全国でいくつかの路線がある。

全国各地で河川氾濫や地滑りが続いている。人知をはるかに超える天災と言えるが、そんな中でほぼ半世紀前に、鉄道のトンネル崩壊を事前に予知して大事故を防いだ事実を思い出した。 昭和45年(1970年)1月22日の真夜中1時24分に長野県内の国鉄飯山線越後岩沢~内ヶ巻間の高場山トンネル(187m)が地滑り崩壊し、土砂は近くの信濃川まで流れ落ちた。特筆したいのはその崩壊予想時刻を前夜から一時間置きに告げていたこと。最終的には、予想時刻のほぼ6分前に崩壊が始またと伝えられているが、現場にいた関係者は直ちに崩壊後の安全対策にあたることができたという。地滑りの前兆は、前年8月の集中豪雨でトンネル入り口の地山に異常を見つけたこと。年末の12月28日には列車を止め、バス代行にした。地滑りから崩壊までの動きは科学的に割り出され、グラフで示されていた。技術開発の先頭に立っていたのは鉄道技術研所で地質研究をしていた斎藤廸孝さん。後日、「どんなに優れた科学的手法で工事を施しても自然が相手のこと。その前後の注意深い観察が求められるのは当然だ。常日頃の油断なき行動こそが大事な心構えになる」と言っていた。

山腹から眺めていると、2両編成の普通列車が静々と駅に停車し、出発していった。乗降客の姿は無かったように思う。

まず、「追憶の岩手軽便鉄道」の章では、氏の所蔵する絵葉書が掲載されている。

かつては、釜石線にも急行列車が走っていた。学生時代の頃で、急行「陸中」と言った。2002年11月30日で廃止となり、現在は、快速「はまゆり」に格下げになってはいるが、その「はまゆり」が繁忙期には4両編成で運転されることから、この、普通列車は、快速「はまゆり」の間合い運用なのかもしれない。

「1925(大正14)年に取締役の瀬川弥右衛門が貴族院議員となった頃から、仙人峠トンネル鉄道建設運動は、次第に岩手軽便鉄道全線の国有化へと方向が切り替わっていくが、これが実を結び1927年第52回帝国議会では「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」が改正鉄道敷設法別表に予定線として追加され、さらに1929年第56回帝国議会では建設線に決まった。関連して岩手軽便鉄道買収案も何度か提案と未成立をくりかえした末に1936年第69回帝国議会において買収が決定、同年8月1日実施となった。買収価格は169万5,424円であった。こうして岩手軽便鉄道は国鉄釜石線(1944年10月11日釜石東線開通以降は釜石西線となる)として生まれ変わった。しかし実質的な変化はなく引続き軽便のままで、魚沼線営業休止後は国鉄唯一の762㎜軌間の営業路線としてその後15年間も存続することになる」

「バスもここまできたか」の感じがした。東急バスは、2021年2月16日から4月28日の平日に限り、無線LANを完備し移動中にもテレワークができるバス『シェアオフィスバス』(予約制)を運行する。対象ダイヤは一日一往復で、往路は東急電鉄市が尾駅前発8時45分、東京駅前着10時45分、復路はJR東京駅前16時25分、市が尾駅前着17時55分。 『シェアオフィスバス』はインターネットに無料で接続できる高速バスで、横浜市郊外のベッドタウンに広がる東急電鉄の市が尾駅からたまプラーザ駅、渋谷駅を経由してJR東京駅に至る路線。料金は1600円。 鉄道においては駅構内や列車内での無線LANの整備が進められてきている。いつでもどこでもネットにつながる環境は、テレワークができるのみならず、災害時等非常時の通信手段の確保が可能となる。全国に張り巡らされた鉄道網、そしてバス網もその役割を担うことを願う。

さて、こうした仙人峠であったが、いつまでも索道と徒歩連絡で済ませるわけにはいかず、花巻~釜石間鉄道全通を望む機運は高まっていった。しかし、仙人峠越えの鉄道建設は、岩手軽便鉄道という小さな民間企業の手に負える工事ではなく、国に対する陳情という形で、その機運は醸成されていく。

上有住駅への再訪は、前回の訪問から16年弱を隔てた2017年5月。「ちゃり鉄11号」の旅の道中でのことだった。青森、秋田、岩手の鉄道路線や廃線跡を巡ったこの旅では、JR釜石線も、花巻から釜石に向けて全線を走破した。

このように、仙人峠は、釜石線全通前は、釜石と遠野を結ぶ陸上交通の重要な峠であっただけではなく、岩手軽便鉄道と釜石鉱山鉄道との間を、索道を介して連絡していた、稀有な鉄道交通の跡地でもある。しかも、時代が下ると、この軽便鉄道や索道は国鉄に買収され、上有住を経由する現在の釜石線が全通するまで、国有索道として経営された。国鉄が索道を営業した事例としては、全国でも唯一のものであるが、その詳細は、文献調査記録で詳述するとして、ここでは、 「図説 宮古・釜石・気仙・上、下閉伊の歴史(金野静一・郷土出版社・2005年)」 に掲載されていた、仙人峠駅の写真と、1935年2月発行の旧版地形図引用しておこう。

東海道本線函南駅で下車した。目的は地名「新幹線」を確かめること。別ルートに東海道新幹線三島駅で伊豆箱根鉄道に乗換えて大場駅で下車の手もあるが、戦前の弾丸列車計画で新丹那トンネルを掘削した当時の話を思い出し、あえて手間暇かかる道順を選んだ。 静岡県田方郡函南町上沢(かみさわ)字新幹線。字名・新幹線までは郵便番号簿にも載っていないが、現地の道案内板には<新幹線地区>と明記されていた。北方向に新幹線がアッという間過ぎって行くのが見えた。新幹線公民館という建物もあった。新幹線ゆかりの地名には、もう一つ公益財団法人総合技術所所在地の東京都国分寺市光(ひかり)町がある。「ひかり号」にあやかって大字平兵衛新田を町名変更した。 なぜ「新幹線」、「光町」に思いを馳せたか。リニア新幹線が静岡県で足踏みをしているからだ。天災が頻繁な昨今、日本経済の動脈・東海道新幹線の安心・安全を願う思いが、一層、強まっている。2021年こそは、リニア新幹線計画進捗の年にしたい。

それに対し、山田線は、明治時代の旧鉄道敷設法によって盛岡~陸中山田間が既に建設中であり、陸中山田~釜石間が、改正鉄道敷設法別表第7号、「岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道」として制定されていたのである。

青森の津軽鉄道では9月1日から鈴虫列車"が運転され、利用者の心を和ませているという。この列車は34年前の昭和61年(1986年)9月に津軽中里駅の駅員さんの発案で始まったと聞いた。昆虫学者は鈴虫を"虫のバイオリン奏者"と例えているというが、確かに旅心を誘う音色でもある。 鈴虫といえば以前、東京のJR上野駅でも"大演奏会"を楽しんだ記憶がある。あの喧噪な駅構内で聞いた楽しさは、不思議と未だに忘れられない。岡山駅や飯山線越後外丸駅、美祢線厚保駅、小野田線小野田駅などでもその話題に遭遇した。どれもこれも"育ての親"は駅員さんで、言ってみれば彼らは"演出家"だったのだ。その演出家からは利用者との繋がりや、安全・安心のための心掛けについても何ら構えることなくお話を伺うことができた。 地方創生、地方再生の言葉は飛び交っているが、こうした話題にふれるのはとみに少なくなった気がしてならない。いつまでも残暑が居座っているせいか、それとも暇すぎるのか、はたまた忙しすぎるのか。

花巻からの普通列車で到着した上有住駅は、既にとっぷり暮れた日没後。降り立った駅には人の姿も気配もなく、夜の帳を友にして一人佇む静かなひと時を過ごした。

ここで、先の「日本国有鉄道百年史 11巻」に関する文献調査記録の最後に取り上げた話題、つまり、「人煙稀な地を行く山田線が、明治時代には既に国による建設予定線に加えられていたにも関わらず、民営の岩手軽便鉄道が開業していた釜石線が、大正期に至っても予定線にすら加えられず、全通が昭和にまでずれ込んだ理由」について、「岩手軽便鉄道 歴史拾遺」の記述を引用しつつ、その背景をまとめていくことにしよう。

コメント

` this.fetchProxy(url, options, 0).then( res => res.json() ).then( data => { if (data.body) this.srcdoc = data.body.replace(/]*)>/i, `
タイトルとURLをコピーしました