焼き鳥の串外しに怒り 店主の思い
いつから定着したのかは不明だが、焼き鳥を串から外したことがない、もしくは外している人を見たことがない人はいないだろう。江戸時代の人々が日常的に守っていたマナーを「江戸しぐさ」と名付け、普及させる動きが一部であったが、史実や学術的な裏付けがないとして批判が集中した。焼き鳥を串から外して食べることも、いつか同じように真偽不明のまま語られることになるかもしれない。
批判を恐れず無茶を承知で主張すると、串を外して食べても美味しい焼き鳥があるのに越したことはないと思う。「串から外して食べなければ、不快な思いをする人がいるのではないか」と忖度する無言のやり取りが、焼き鳥の味を新たな局面へと押し上げるからだ。わざわざ串に刺して調理しているのに、わざわざ串から外して食べる――。外国人から見たらナンセンスに思えるその行為に、筆者は形式美を見出す。後世に残すべき、「平成しぐさ」がそこにある。
さらに、こうした実利的な理由だけではない。そもそも、焼き鳥が提供されたら他の人に配慮して取り分けることが当然のマナーだと思っている人も多い。かくいう筆者もその口だったため、焼き鳥を串に刺すことにこだわりを持っている提供側や、串から外すことをよしとしない通人がいることに、思い至ることすらなかった。
さらに、どうしても串にこだわるならば、ハツ、つくね、レバーといった定番メニューを一つずつ一串に刺した“バラエティ焼き鳥”を開発してみてはどうか。火加減、塩加減など調理に工夫が必要になるものの、そこは腕の見せどころだ。すでにそういったメニューがあるかどうかはわからないが、きっと人気が出ることだろう。
② 焼きとりを解凍して串から外して、コンソメと塩こしょうと一緒に②に加えて炒める。
しかも、それを串から外してばらけさせるまでの過程を含めて、我々が大衆食として愛着を抱いている「焼き鳥」の概念を構成していると、筆者は考えている。バラバラの焼き鳥を食べるにしても、串を外す過程を経ないと、焼き鳥だとは言い難い。
焼きとりに味はついていないので、タレにしたい場合は、タレに漬けた状態で持っていけばOK。
こちらでも上手な焼き方が紹介されているので参考にしてみてください。
どうせ外すのに、肉を一本刺しにする串。焼き鳥にとっての串は、必要ないのに、絶対に必要だという哲学的な存在なのである。無駄の中にこそ、文化は宿るものだ。
焼き鳥を串から外して食べるようになったのは、いつごろからなのだろうか。店主は、「ここ数年」としているが、筆者が大学生だった17年ほど前にはすでに、串から外す“常識”が存在していたと記憶している。串から焼き鳥を外す先輩の所作を見て、「なるほど、そういう心遣いがあるのか」と感心したものだった。以来、焼き鳥が提供されたらまずは串から外すことが、筆者の中でなんとなくの習慣になっていた。「串から外して食べなければ、不快な思いをする人がいるのではないか」と。
と、ここまで書いて、やはりしっくりしない感じが残る。そう、やはり我々が知っている慣れ親しんだ普通の串刺しスタイルでなければ、焼き鳥を食べた感じにならないのである。
そして、さまざまな思惑が詰まったバラバラの焼き鳥も、これまた格別なものである。
ただ、“実利”と“こだわり”を両立する術はないだろうかとも思う。ブログの店主は、串から外すならフライパンで炒めても同じとするが、実際に炒めるタイプの焼き鳥は存在する。一例が、ご当地グルメとして知られる愛媛県の「今治焼き鳥」だ。
また、店側がどうしても串から外してほしくないなら、串揚げの「ソース二度づけ禁止」のように、「串から外すのお断り」というルールを作ればいい。その店主の思想に賛同する人は常連客になるだろうし、そうでない人は足が遠のくだけのことである。
いつのまにか暗黙の常識として認識し、深く考えずになんとなく串から外していた派としては、今回の論争は焼き鳥の奥深さに触れるよい機会だったと感じた。
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